今夜もタオルで頭を冷やす
今年の夏は特に暑かった。
なんてことを毎年のように言っている気がする。
仕方ない、本当のことだ。年々最高気温が更新されているのだ。熱中症で倒れる人はどんどん増えてるし、部活も水分補給を推奨されるほどだ。
まぁつまり、俺もこの暑さに参っていた。エアコンも壊れたし。
「お、お邪魔しまーす……」
玄関の扉を開けると、涼しげな空気が流れてきた。
それまで馬鹿みたいに暑かった外の停滞しきった空気とは違う。冷たい匂いがする。
「おー! アキユキきたー!」
生き返ったと思った瞬間、奥から5歳の女の子が現れる。長い髪を振り乱し無邪気に笑いながら俺のもとへとやってきた。
「アキユキー」
「すずちゃん、今日もげんっ!」
今日も元気だねと言おうとしたところで女の子の頭突きがみぞおちに炸裂した。
めりぃっと鈍い音が鳴り、重い痛みがじんわりと広がる。
油断した。まさかそんな、最近やられてなかったけど。
「うっ……うぶぅ……きょ、今日も元気だね……」
「うんっ! きょうもげんきだよっ!」
「そ、そいつはよかった……なによりだよ……」
「なによりだ! アキユキはげんきか?」
「お、おう……俺も元気……元気だよ……」
「おーよかったな」
「アキユキくん? どうしたの?」
腹をおさえて痛みに堪えていると、廊下の奥から女の子の母親である七海蛍さんが現れた。
シャツとデニムというラフな格好で長い髪を後ろで結んでポニーテールにしている。いつものスタイルだ。
「ど、どうも蛍さん……」
「アキユキくん? ああもう、またすずにやられたの?」
「いやまぁ、俺が、油断してたんで」
「ゆだんなー。いのちとりだからなー」
「すず、そうじゃないでしょ。ちゃんとアキユキくんにごめんなさいってして」
「あーごめんな、アキユキ。いたかったよな?」
「ごめんなさいでしょ」
「ああ、そんな、いいっすよ。大丈夫だよすずちゃん。まぁ……次から気をつけてくれれば……ははは」
おなかをさすりながら立ち上がり、すずちゃんの頭をポンポンと叩く。
一応謝ってくれたし俺も大丈夫とのことなのでひとまず蛍さんも納得してくれた。
「いつもごめんねアキユキくん。大丈夫?」
「あはは、大丈夫ですよ。それよりもこれ。お土産というか今日お世話になるからというか」
リュックの中からシュークリームが入った箱を取り出す。今日のために駅前の人気店で買ってきたものだ。
「わっ、これあそこのでしょ? 駅のところの。こんないいもの、悪いよ」
「いえいえ、いつもお世話になってますし。お2人で食べてください」
「もう、そんなの気にしなくていいのに」
「なに? おかあさんそれなに? アキユキ、これなんなの?」
ぴょんぴょん飛び跳ねて箱の中身を確認しようとするすずちゃん。なんとなくいいものだと子供の本能で察しているのだろう。
「シュークリームだよ。1個はバナナミルクでもう1個はイチゴ味」
「はーシュークリーム。バナナとイチゴかー。すずがりょうほうたべるべきか?」
「そんなわけないのよ。お母さんと1個ずつ食べてくれ」
「そうか……でもおかあさんはたしかいちごはあんまりだから。すずがたべてあげたほうが」
「変な嘘つかないの。今日のデザートだからね。勝手に食べちゃダメだよ」
にっこりと笑い、蛍さんがシュークリームを冷蔵庫へとしまう。すずちゃんが勝手に食べないよう一番上の棚だ。
「とりあえずご飯作っちゃうから。待っててねアキユキくん」
「あ、どうも。なにか手伝いますか?」
「ううん、すずの相手してあげて」
「アキユキ! あそぼっ!」
すずちゃんにグイグイと腕を引っ張られる。蛍さんのエプロン姿を眺めることもなく俺はリビングで遊ぶことになった。
うちのエアコンがぶっ壊れた。こんなくそ暑い時期にエアコンが壊れるなんて本当についてない。
幸いなことに修理はすぐ来てくれるらしく、上手くいけば明日には直る見込みだ。
だが、1日だけエアコンがない生活を我慢しなければいけない。絶望の淵に立たされた時に事情を聞いたお隣の蛍さんが俺に救いの手を差し伸べてくれた。
『よかったらうちで寝る?』
あまりにもお優しいお言葉に俺は涙を流して、いや、汗を流して何度も感謝の意を述べた。本当に蛍さんと仲良くなっておいてよ良かった。今日ほどご近所付き合いをしておいて良かったと思える日はないだろう。
「そういえばアキユキくんは今日どこで寝るの?」
すずちゃんとニューブロックで遊んでいると蛍さんの声が後ろから聴こえてきた。餃子のタネを皮で包んでいて、白い指先が小麦粉で少し白くなっている。
「寝る場所ですか? えっと、どこが邪魔にならないですかね?」
「んー? 別にどこでも。寝室でいいんじゃない?」
「し、寝室ですか?」
「うん、寝室」
1LDKのこの部屋はリビングの向かい側が蛍さんの私室兼親子の寝室になっている。順当にいけば、俺は今夜蛍さんとすずちゃんと3人で寝ることになるのだ。
うーん、どうなんだ。すずちゃんを間に挟んでるからセーフなのか。それとも蛍さんにとって俺なんて男としてカウントされてないから別にオッケーなのか。完全に油断されてる。
「いやぁ、寝室はちょっと……いいですよ、俺廊下で寝るんで」
「なに言ってるの。そんなのだめに決まってるでしょ」
「じゃあリビングで」
「リビングで寝たらクーラーの風が直接当たるから、風邪引いちゃうよ」
「いやぁ、でもいいんですかね?」
「私は別にいいよ。すずもアキユキくんと一緒に寝てもいいでしょ?」
「アキユキと? うーん……まぁいっかな。とくべつな」
「ふふふっ、だって。アキユキくん」
「特別ね……ありがとな、すずちゃん」
おもちゃに夢中のすずちゃんへお礼を言う。ニューブロックで熱心に二世帯住宅を組み立てながら「まぁなー」と適当な返事をしてくれた。
◆◆◆
「すずちゃん、寝たみたいです。ぐっすりですよ」
そっと寝室の扉を閉めて俺はひとまず蛍さんに報告する。
彼女はストリーミングサービスで海外ドラマを鑑賞中で、俺の報告に対して微動だにせず「ありがとー」と返事をした。
「すごかったですよ。それまではしゃいでたのに突然スイッチが切れたみたいにカクンッてなって寝ちゃって」
「うん、たぶんアキユキくんと久しぶりに遊べたから楽しかったんじゃないかな」
画面から目を離すことなく蛍さんが答える。確かにここ最近は大学でゼミにこもりっきりだったから2人に会っていなかった。大体3週間くらいは会ってなかったかもしれない。
「いやぁでも良かったですよ。すずちゃんがちゃんと顔覚えてくれてて。忘れられてるかもって思いましたもん」
「ふふっ、あと2日会ってなかったら危なかったかも」
「そんなにですか」
「あの子結構そういうところあるから……そうだ、シュークリーム食べよ」
突然会話を切り上げ蛍さんが立ち上がる。ぱたぱたとご機嫌な足取りで台所へ向かい冷蔵庫を開ける。
なにがスイッチだったんだと思いながらとりあえず俺もソファーに座った。
「おっ、バナナミルクの方が残ってる」
がさがさと音が聞こえ、少しすると蛍さんがシュークリームを持って戻ってきた。
俺の隣に座り、映像を少しだけ戻す。
「それ、気をつけたほうがいいですよ。さっきすずちゃんが食べたときびゅって反対側からクリームとび出てましたから」
「えーそうなの? でも私大人だから。大丈夫だよー」
楽しそうに笑いながら蛍さんがシュークリームにかみつく。
瞬間、シュークリームの反対側から勢いよくクリームが溢れ出た。
やばい――そう思ったとき既に手を突き出していて、床のフローリングに落ちようとしているクリームを手で受け止めた。だから言ったじゃん。
「アキユキくんごめんね? 大丈夫?」
「全然全然、大丈夫です」
「ふふふっ、言われたばっかなのにやっちゃった」
クスクスと笑いながらシュークリームを食べる蛍さん。さて、手についたクリームはどう処理すればいいのだろう。
娘のすずちゃんはテーブルの上に落ちたクリームをお母さんが見ていない間にずぞぞって吸ってたけど、蛍さんはどう対応するのか。
「やっぱり親子ですね」
「そうでしょ? すずは落としたやつどうしてたの?」
「あー……吸ってました」
「やっぱり。なんであの子あんなに食い意地張ってるんだろう」
「なんでですかねぇ……そういえばこれ、どうします?」
手についたクリームを蛍さんへ見せる。言ってから『これ普通にギリでセクハラなんじゃ……』と後悔する。
2つの意味で引っ込みつかない手をどうしようかと悩んでいると蛍さんは俺の顔をじっと見つめ、距離を詰めてきた。
ふわっとシャンプーの匂いがしてくる。もう少しで手元に口が届きそうな距離まできて――
「いいよ、それあげる」
クスっと笑って顔を離した。
スカされた上に見透かされてしまった。恥ずかしさをごまかすようにできるだけ平静を保ちながら「どうも」と返事をして指についたクリームのちっちゃい塊を口に入れる。
「もしかして、指吸われると思った?」
いたずらっぽい表情で蛍さんが小首をかしげてこちらを覗き込んでくる。年上の小悪魔で美人なお姉さんって百点満点かよ。
そんな視線にどうにか堪えながら、俺はティッシュで指に残っていたクリームを拭いた。
「いやぁ、全然思ってないっすね。微塵も。これっぽっちも」
「えーほんとう? 本当に思ってない?」
「思ってないっす」
「ふーん……言ってくれれば吸ってあげたのにな」
「え? 今なんて言いました?」
「んー? 聞いてたでしょ?」
「いや全然聞いてないんですけど。でも言えば吸ってくれたんですか?」
「ちゃんと聞いてるじゃん」
口元をおさえながら蛍さんがきゃらきゃらと笑う。言えばやってくれたなんてそんな――俺はすっかり綺麗になった指先を見てひそかにため息をついた。
「……アキユキくん。口開けて」
ひっそり落ち込んでいると蛍さんが声をかけてくれた。なんだろうと思って顔をあげると、蠱惑的な笑みを浮かべながら「お口、開けて」と言ってくる。
「あーん」
蛍さんがシュークリームの最後の一口を俺の口へと差し出してきた。
思わぬご褒美に俺は口をあけたまま固まってしまう。
ゆっくりとシュークリームのかけらと蛍さんの指が口の入り口にくる。
慎重に口を閉じて、シュークリームのかけらだけを口内に入れる。中に少しだけクリームが残っていてほんのり甘かった。
「おいしい?」
ピタッと肩をくっつけて蛍さんが微笑みながら訊ねる。
俺は顔を赤くしながらもコクコクと頷くことしかできなかった。
今夜は正直眠れそうにない。
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