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アイドルオタクがストリップ劇場へ行かない理由があるとすれば

※6月17日 見出し等に若干の語句修正

0.はじめに

 ストリップについての文章の多くは、ストリップへの「入門」を誘いかけるものだと思います。
 しかし、『ab-』に収められた文章は、あまりそうした「入門」としての性格は強くありません。これについては『ab- ストリップのタイムライン』の紹介記事でも書いた通りです。
 
 ですが、もし『ab-』がまだストリップを見たことのない人に向けて「入門」を誘いかけるなら。すでに多くの「入門」があるなか、あえて書くとするなら。
 ここでは、おそらく、とりわけ好奇心を刺激することができるだろうクラスター、すなわちタイトル通り「アイドルオタク」に向けた「入門」を書くことにします。
 
 以下、記事がいくつかのセクションに分けられていますが、つまみ食いのようにどこから読んでも大丈夫です。

1.なぜアイドルオタクか

ストリップという現場

 なぜアイドルオタクに呼びかけるのか。もっとも簡単な答えは、筆者がもともとアイドルオタクだったことに尽きます。

 重ねて個人的な話を続けるなら、文学フリマ東京でたまたま手に取った『私たちのアツいストリップ活動』(現在品切)に、こうした話があったことをきっかけのひとつにして、ストリップに惹かれました。

たしかにリボンの練習はしてきたけど、他の踊り子さんに投げるときとMIKAさんに投げるときとではやっぱり全然気持ちが違って、投げるときMIKAさんを見る余裕はまるでなかった。

「インタビュー スト客・新井さん(仮名)」

 「リボン」とは、踊り子さんの演目のクライマックスを彩るために投げられるテープの束のことです。そんなものがあることを、このインタビューで始めて知りました。また、リボンを投げるお客さんの心の揺れ動きにもリアリティを感じます。もう少し引用します。

(…)初めて周年の取りまとめをさせてもらいました。取りまとめとは、周年や誕生日の週に、その踊り子さんのファンの方々に声をかけてスタンド花を出したり記念グッズを作ったりする役目で、お客さんの有志でやっています。

「インタビュー スト客・新井さん(仮名)」

 これはそう、地下アイドルの現場での、いわゆる「生誕祭」の仕切りとほとんど同型です。
 アイドル現場がそうであるように、ストリップの現場もまた、ステージに演者とファンのインタラクティブな関係があり、またファンが演者を様々な形でサポートすることがある……そうした文化がまた別の場所にもある。このことを知った驚きは忘れがたいものがあります。

 さらにストリップには「接触」もあることを知ります。というか、その歴史の古さから、地下アイドル現場でおなじみのチェキ撮影は、ストリップ劇場のポラロイドショーにおいて先駆的になされていたとも考えられそうです。
 筆者は何人ものアイドルオタクをストリップ劇場に連れていきましたが、彼ら彼女らが一様に興味を引くのはこの「接触」の様子です。まるで異国の文化を眺めるような顔つきで観察しながら、ついに結論に至るのは"ストリップの観客もアイドルオタクもひじょうに似ている"ということです。

「人」への関心

 あなたがオタクなら、演者と観客が相互に盛り上げるライブのインタラクティビティ、写真撮影による「接触」的なコミュニケーション、これらがあることによって、ストリップもまた「推し」的な「人」への関心が強い文化であることに気づいているのではないでしょうか。
 
 ストリップですから、そこには観客の性的な好奇心を刺激し、満たそうとするものはあります。しかし、これはおかしな話のようですが、実のところ"裸体が晒される"ことへの戸惑いや驚き自体には、早々に慣れていきます(ここはひじょうに大事な点なのですが、関心のパターン化を説明するために話をあえて単純化しています)。そして毎日繰り返される公演──1ステージ15分を5〜6名の踊り子が1日4回、10日刻みで行う──も手伝って、客は容易に常連になることができます。なぜ常連になるのか。それは多くの場合、お目当ての踊り子さんが生まれたからに他なりません。

 『ab-』で行った『イルミナ』編集のうさぎいぬさんのインタビューから発言を引用しましょう。

二〇一五年の年末に、キャバレーで仲よくなった女の子たちと浅草ロック座に行き、「この人いいな」という踊り子さんを見つけました。それが「かんな」さんです。彼女のTwitterを見たら、まもなく引退するということと、自分の別のバイト先の近くに浜劇(現横浜ロック座)があることが分かり、一人で行ってみたんです。ちょっと身構えて行ったようなところもあったし、仕組みが分からなくてポラも撮らなかったのですが、客席の雰囲気もステージの印象もあいまって、すごくいい経験でした。他に女性客がいなくて、かんなさんが強烈にファンサをくれたり。そして、二〇一六年四月がかんなさんの浅草での引退公演でした。前半(1st)一回行って、後半(2nd)も一回行こうと思ったんですが、「もう一回行きたいな」と思って……。気づいたら五日くらい通ってました。

『ab-』「うさぎいぬ─ストリップを語ること」

 ステージの魅力と、それを包む環境の魅力の切り分けがたさ。こうした切り分けがたさに「人」を介して出会い、その出会いの喜びへ素直に従う姿はやはり「オタク」のそれに似ていると言えないでしょうか。

2.踊り子たち

 誰かが「オタク」になるためには、ひとりの特別な誰かとの出会いが欠かせません。誰と誰の遭遇が「出会い」になるのかは、あらかじめまったく分かりませんから、無闇に押し付けるのは避けておきます。
 かといって、見取り図もないままに放り出されたところで、あまりにもとっかかりがないでしょう。そして、オタクは誰かとの遭遇を「出会い」に変えるロマンティックな生き物であると同時に、「情報」の好きな生き物でもあるはずです。
 たとえば『ab-』にも参加している、舞踊研究者の武藤大祐さんによるこちらの紹介記事はどうでしょう。専門家による知見もまた、オタクの好物ではないでしょうか。そして何より、紹介されている踊り子がひとつの"とっかかり"になって、劇場に行く機会のタイミングを作るきっかけにもになるはずです。実際、筆者はかねてから武藤さんが友坂麗という踊り子の名前を出していたことから、その踊り子が出演しているからという理由で初ストリップを体験し、震えるような感動を得ることになったのでした。

 話が逸れました。ここでは、上記記事には挙げられていない、幾人かの踊り子の名前を"とっかかり"として、紹介させてもらいます。

ささきさち

 2019.12.21 デビュー。渋谷道頓堀劇場所属。
 ささきさちさんを見てまず驚くのは、アイドルそのものと言っていいルックスと、モデルのように均整の取れたスタイルです。ただし、本当に驚くべきなのはささきさんのパフォーマーとしての飛び抜けた才能です。こちらがたじろぐほどハードにエロティックな見せ場(『スリーピーガール』『3周年作』など)がある演目や、ストリップ特有の「ポーズ」に込められる熱(『紫陽花』『ホーム』など)は、最初の印象をまったく違った形で塗り替えるでしょう。

浅葱アゲハ

 2004.4.21 デビュー。フリー。
 エアリアルフープやエアリアルティシューと呼ばれる、サーカスなどでおなじみの空中芸をストリップに持ち込んだ第一人者と言われています。そうしたアクロバットの経験は、アゲハさんの肉体にそのまま、造形的ともいえる筋肉として刻まれています。こうした肉体をまなざすことの幅広さ・奥行きは、アゲハさんにおいてまず拡張されるはずですし、その強さがマッチョさではなく、優雅で優しさにあふれたものとして提示される(『TEMPEST』『あきんこあかいと』など)ことにも、涙さえ流れるはずです。

葵マコ

 2008.7.21 デビュー。DX東寺所属。
 マコさんのダンススタイルはひとまずコンテンポラリーダンス的と言えます。しかしそれがありがちな「芸術」的な表現に繋がるかというと、そうとは言えません。アゲハさんのような肉体の強度に打たれたり、どこを見つめているでもない遠い眼差しがふいに微笑みに移ろったりする(笑顔がとてつもなくキュート!)、素朴ながらも確かに感覚に強く訴えかける出来事を経験することになります。『You Can Cry』はそうしたマコさんのスタイルが圧縮された、ほとんど奇跡的と言っていいストリップの演目になっています。

目黒あいら

 2008.4.1 デビュー。晃生ショー劇場所属。
 あいらさんはまずそのダンス。曲のキックをがっしり掴んだヒップホップダンスに目を奪われるはずです。同時に、あいらさんは不動に近い、ほとんど何もしていないような時間に漂う気だるく濃密な色気にも打たれます。この静と動、いや、「静」としか見えていなかった解像度を更新して、微細な「動」の官能のありかたを知ることになるでしょう(『Ban』『Sky』など)。また代表作の一つと言っていいはずの『グレイテスト・ショーマン』は冒頭からすべてをかっさらっていくエモーションの嵐があり、『secret』には選曲の妙により、得も言われぬ何かが渦潮のようなうねりをもたらして客の知覚を巻き込む異様なシークエンスがあります。

石原さゆみ

 2014.12.21デビュー。渋谷道頓堀劇場所属。
 ほとんど正月・GW・お盆といったごく限られた期間、それも5日間だけ出演する特別な踊り子さんです。そうしたイレギュラーが許されているのは、さゆみさんのアイドル的な圧倒的人気によります。ですが、ストリップとしては規格外の大道具を用いたばかばかしくも祝祭的な演目(『DJさゆみん』『盆カレー』)があるかと思えば、実にリリカルな演目(『モーターサイクルダイアリーズ』『ダンス』)もあり、さらには正統派の演目(『ウェディング』『フラメンコ』)もものにする多彩な作家性は見逃せません。さらには飄々としたパーソナリティと、観客の心を一撃で捕えるパフォーマンスが同居する魅力的な掴みがたさは、ストリップというジャンルに限定されることのない関心を呼び起こすはずです。

3.アイドルとストリップの重なり

成長とは別の仕方で

 仮に挙げたこの5人は、ストリップという表現の可能性を広げ、その文化を豊かにしている踊り子たちであるといえます。それぞれの活動歴をあらためて確認すると3年、19年、15年、8年……このようにキャリアのばらつきをもった演者がひとつのステージで芸を磨き合っているのです。こうしたありかたは、アイドルに親しんでいればいるほど、重く感じられる人もいるのではないでしょうか。
 
 アイドルは、それ自体が商品の付帯価値としてアピールしうるほど「成長」を必要としている側面があります。もっと大きなステージへ、もっと多くのファンを増やして、という際限のない拡大。
 でもすべてのアイドルがそのように「成長」できるわけではないのは自明です。オタクは、アイドルが「成長」を期待して、それにしがみつき、なんとか光明を見出すけれども、夢叶わず卒業・解散していく姿を、あまりにも見すぎているはずです。
 踊り子にもそうした人気商売的側面がないわけではありませんし、全員が長く勤められる仕事でもないでしょう。ですが、10年を超えている活動歴を持った踊り子もまったく珍しくありません。まず20代と50代の踊り子がしばしば同じ劇場で相まみえるという事態が、ストリップという世界の懐の広さを示しているはずです。
 やたらに「成長」せずに、劇場という場所で日々働き続けること。そこはもちろんユートピアではありませんが、アイドルが抱える問題のひとつが、別のやりかたで乗り越えられているとも言えないでしょうか。

宇佐美なつ

 アイドルとストリップを比較する視点からは、まだまだたくさんのことが言えます。『イルミナ』の最新号でも、アイドルとストリップを比較したアイドルオタクの座談会が収録されています
 
 また何より、踊り子たちもひとりのオタクであったりします。
 そして、踊り子になる前はアイドルを追いつつ、同時にストリップも見ていたという人も少なくないのです。あたかもアイドルオタクがアイドルに憧れてそのまま自分もアイドルになってしまうように、スト客がそのまま踊り子になってしまうことだってあります。
 
 こうした文脈において、──さきの武藤さんの記事の紹介からひとりだけ重複させるなら──宇佐美なつ(2019.7.11デビュー。渋谷道頓堀劇場所属)という踊り子の名前は欠かせません。なぜならアイドルオタクであることを公言(エッセイ 『アイドル批評誌 かいわい vol.4』所収「愛しき悲しみたちと走れ」)していたり、演目や踊りのスタイルにアイドル的な要素があるからだけではなく、宇佐美さん自身が、スト客から踊り子になったひとりであるからに他なりません。
 くわえて、宇佐美さんはきわめて自覚的に「アイドル」にまつわる問題を消化/昇華したうえでストリップを行っているようにも思われます。補助線として本人の発言を見てみましょう。

(…)ストリップ劇場は、女の身体を〝見る〟場所だ。そこに在る身体は視線を向けられることを前提として整備され、美醜や属性についての評価を受けることを避けられない。だからといって、そこが視線という暴力が無条件かつ無秩序に飛び交う場であるならば、その痛みを知る身としては居心地が悪い。
 しかし、私にとって初めての劇場体験は、そうした懸念を払拭してくれるものだった。そこには一方的で無自覚な消費ではなく、踊り子と客の双方向的な視線の交感があった。

『イルミナ 1号』「視線の中で生きる私たち」


 確かに、このエッセイで語られているのはストリップのことであり、アイドルのことではありません。しかしアイドルもまた「見る/見られる」という視線の問題を多く孕んだ存在として地続きにあるでしょう。
 宇佐美さんはストリップの本質を見る/見られるという視線の関係に抽象化したうえで、その「交感」を言祝いでいます。それだけではありません。実際にそうした濃密な視線のやり取りが、演目へエンターテインメントとして落とし込まれているかのような演目(『黒煙』『ワンダーテイスト』など)もあります。
 アイドルやストリップを楽しみつつ、そこにある問題から目を逸らさず、まっすぐに見つめること。それがよりアイドルやストリップを深く楽しむために欠かせないものであることを、宇佐美さんのステージは体現しているはずです。

4.性という大きな問題

エロを切り分ける

 ストリップは、ステージを楽しみ、写真を撮り、人に惹かれるというアイドルに似た娯楽の形を取っていながら、「性」という私たちがいまだうまく扱いかねているテーマを中心に据えた芸であることは、何度でも強調しなければなりません。
 またそして、アイドルにおいて「性」の問題は半ばタブー視されているとすら言えます。他方でアイドルが水着になること、「AV堕ち」すること、はたまた恋愛を事実上禁止されること……アイドルを見ていて、こうしたトピックについて喧々諤々している場面に1度も行き当たらなかった人は、まずいないのではないでしょうか。
 ストリップはこのことに、真っ向から考えられる機会を作るパフォーマンスでもあります。さきに紹介した座談会の最後、自身もアイドルオタクであるあいださんから、ひじょうに重要な指摘がなされています。

今回のお話で思ったのですが、「エロ」「セクシー」と言葉にした時に、何を指すのかはけっこうあいまいですよね。(…)当たり前のように「エロいもの」として語られるけど、実はどういうエロのことを話しているのかは状況や人によって違う。どのエロの話をしているのかを都度切り分けていくことで、ストリップはもちろん、ほかの芸能におけるエロのあり方や、技術としてのセクシーや色気のことももっとよく見えてくるのかなと思いました。

『イルミナ 5号』「座談会 ドルオタが語るストリップの魅力」

 ストリップは表現です。ですから、様々に「切り分」けられる「エロ」さが表現の中で発生しています。観客はその表現に触れて、自分でも思いもしなかったような美しさや快楽の存在に気づき、そのことに驚き、心が動いて、裸というものの目も眩むような広がりに打たれます。
 もちろん、ストリップをよく見ている観客でも、その表現の中身を細かく腑分けすることはむずかしい。このことはあいださんの発言からも読み取れるはずです。ただ、むずかしいものをはっきり「むずかしい」と実感できているかそうでないかには、大きな開きがあるのではないでしょうか。
 
 ストリップはアイドルにとても似ている。でもアイドルは、ストリップのようにうまく「性」や「エロ」を扱いかねているところもある。それがどういう理由によるのか、あるいはどういう意味を持っていることなのか、ストリップを見ることで、そのむずかしさの輪郭が明らかになっていくと信じています。

5.おわりに ──本の紹介もしつつ

アイドルとストリップの重なりをより知るために 

 以上でアイドルオタクに向けたストリップの「入門」は終了です。もちろん、他にもさまざまな切り口があるし、もっと端的に面白く紹介しているレポ漫画・記事もたくさんあります。

 たとえば菜央こりん『女の子のためのストリップ劇場入門』はまさしくストリップ入門漫画の嚆矢です。気軽に異文化体験に触れられるうえに、「女性」にとってストリップがどういう出会いをもたらしているのか、新たな視点を得ることにも繋がるはずです。

 そして本記事でも何度となく紹介した『イルミナ』は現在5号までシリーズが続いています。現在のストリップについて知るためには欠かせない存在です。
 引用したエッセイを1号に寄稿していた宇佐美なつさんは、2号ではインタビューが掲載されています。アイドルとご自身の関係についても詳しく語られています。4号には地下アイドルのオタクでもあるアニオタさんのエッセイ「沼へようこそ」なども。また、どの号にも含まれているさまざまな座談会に目を通せば、オタクには馴染みのあるアツい温度感が伝わることでしょう。

 イワイ編『推しって呼べない』では、「推し」と呼んでしまうにはためらいを持ちつつも、特定の「人」に惹かれてしまう人々の語りが収められています。ここでもやはり自身がアイドルオタクでありスト客であるイワイさんと渡邉千尋さんが、それぞれエッセイ・論考の形で寄稿しています。

 最後に手前味噌ですが『ab- ストリップのタイムライン』や『ab-EX Re:メンズストリップ』においても、現場の機微やアイドルとストリップの関係は描かれています。また石原さゆみさんのインタビューにある、ご自身のなかなかに濃いドルオタとしての遍歴についての語りも必読です。


 本を読んで"その時"が来るのを待つもよし、思いつきでぱっと足を運んでみるもよし、ストリップ劇場は、来るべきあなたを常に歓迎しているはずです。
 
 さて、アイドルオタクがストリップ劇場に行かない理由があるとすれば──そんなものが、本当にあるのでしょうか?

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