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ベーシックインカムちゃんねるを参考に正しさと豊かさを両立させる方法を考えてみる。

社会の豊かさを実現するために、こうはできないのだろうか??


ベーシックインカムを実現する方法を一通り読んだ。今回はその「正しさと豊かさ」の相反がテーマだ。何が正しいかを考えて、社会に訴え続けても、まさにそれが正しいがゆえに豊かさを解体してしまう。その相反を前提とした上で、真の正しさと真の豊かさについて考えてみる。

それ以前に私は「労働」とは「他人により強制される不愉快な試み」だという定義を学んでいる。ベーシックインカムを実現する方法を見る限り、豊かさ、正しさの側両方にこの「労働」があるのだ。

だって、学校でテストの点数を上げるために競争するのも、就職活動や転職活動で競争するのも、自分のことがテストの点数で決められるのも、会社の出世競争も、細かな社会保障の申請や諸々の細かな作業も、溜まり溜まった申請作業や、許可を得る作業も、正しさの側にあるが、これらは「他人により強制される不愉快な試み」となりうる。

学校の空気を読んで周りと合わせないといじめられることや、職場の飲み会などのイベントに強制参加であったことや、お見合いで好きでもない人と一生住み続けることや、新卒採用で一生の勤務先が決まってしまうことや、毒親やパワハラ上司を受け入れて過ごすことや、これまでの社会にあった様々な差別は、豊かさ=不自然な協力の側にあるが、これらは「他人により強制される不愉快な試み」だ。

つまり、正しさにも、豊かさにも「他人により強制される不愉快な試み」があるといいたい。

だとしたら、こうは考えられないだろうか??

まずは、アクセルとブレーキ両方に「他人により強制される不愉快な試み」があることを認めよう。そして、まさにその「労働」を最小限にするためにアクセルとブレーキを使いこなせないだろうか??

アクセルとブレーキを使いこなして豊かになる

ブレーキがあるからこそ、アクセルをより掛けることができる。ブレーキがなければ、ほとんどアクセルが掛けられないか、事故を起こしてしまうだろう。ブレーキとはまさにアクセルのために、車がより早く走るためにある。

だとしたら。
まさにアクセルの中にある「他人により強制される不愉快な試み」ではない、まさに豊かさそのものについて着目して、その豊かさを最大化させるためのアクセルとブレーキを使うことはできないだろうか?

アクセルの問題点:強制力と暴力性がある。

アクセル(不自然な協力)では、まさにそれが不自然な協力であるから、他人により強制される不愉快な試みが大量に発生する。

当然それにより豊かになれるのだが、その豊かになれるとは以下のようなロジックだ。

第二次世界大戦と冷戦はまさに生死と覇権を争っていたため、人々は必死に研究を行った。おかげで情報通信技術、航空技術、宇宙技術、コンテナなどの運搬技術など今日に至るのに必要なイノベーションを生み出した。先の大戦がなければこんなにも豊かにはなっていない、というのは間違いない。

そして、日本はまさに冷戦があったから高度経済成長期を迎えて豊かになった(そして冷戦が終わったから日本はGDP的に成長できなくなったという指摘もある)。

しかし、よくよく考えれば、別に殺し合いなんてしなくても、必死に研究することは可能だ。むしろ、殺し合いなんてせずにみんなが必死に研究していたらもっと豊かになっていた。殺された人達の分も研究できるのだから。

そして、他人により強制される不愉快な試みと不自然な協力はイコールではない。人には貢献欲があるからだ。アンチワーク哲学が貢献欲の概念に注目するのはまさにこのためだと私は考える。

つまり、アクセルのうち「強制力・暴力性=他人により強制される不愉快な試み」とそうでない「真の豊かさ=貢献欲」が分離可能だ。

ブレーキがないときアクセルで爆発するのは、まさに「他人により強制される不愉快な試み」のせいである。

例えば、かつての共産主義は極めて協力なアクセルであったがゆえに、暴力革命や強権的な独裁政治などの「他人により強制される不愉快な試み」をして失敗した。一時期に恐慌を回避し、戦争に強かったなどの効果はあったが、パラダイスみてえな国には結局たどり着けなかった。

アクセルの強すぎる車が事故ってしまったのだ。
そして今も事故っているし、今後更に事故ろうとしている。今の社会は正しさの過剰で苦しむか、不愉快な試みの過剰で事故るかの二パターンだ……。

共産主義はアクセルの側にあり、一時的にアクセルが上手く行ったため、人々はより強いアクセルを支持して爆発した。共産主義とは速度超過した車がすぐに事故らず速度をあげたケースである。

とはいえ、そもそもこうした「不愉快な試み」を実行する「強い価値判断」が行われた背景には、「パラダイスさ」を人々が強く求めていたからだ。

であれば、まさにアクセルの中に含まれる「他人により強制される不愉快な試み(強制力と暴力性)」にブレーキでNOを突きつけ、アクセル側からも強制力と暴力性は控え、そのパラダイスさ(豊かさ)そのものにより注目し、専念できないだろうか??

そしてそのパラダイスさの答えが貢献欲なのである。アンパンマンの世界は共産主義が成立した世界だと言われることがあるが、このパラダイスが成立しているのはまさにそれが貢献欲によって成り立っているからなのだ。

正しさの「不愉快さ」を軽減する

そして次に正しさの側にも「他人により強制される不愉快な試み」があることを認める。

お金とは正しさの側にあるものだが、お金の処理をすることや、お金を稼ぐために人生の大半を費やさなければないこと、お金を稼がないと路頭に迷うプレッシャーは、「他人により強制される極めて不愉快な試み」だ。

これはメリトクラシーや、弱者を選ぶ競争においても同じである。そして、それが不愉快だと感じるし、しかも、正しさの側にあるせいで豊かさを切り崩してしまうし、しかも強制されているからつまらないという理由でこれらの試みはブルシットジョブになってしまう。

そして余計に「他人により強制される不愉快な試み」となってしまうのだ。そしてそのブルシットジョブが、仮に儀式的なものだとしても、その儀式の生産性さえ、まさにそれがつまらないという理由で落ちる。そして、もう地獄、つらい……という現状をもたらす。この負のループが多発している。

しかし、正しさとはアクセルの中に含まれる「他人により強制される不愉快な試み(強制力と暴力性)」にしっかりとブレーキでNOを突きつけ、そのパラダイスさ(豊かさ)そのものにより注目し、専念するためのものだ。

なのに、その正しさ自体が「他人により強制される不愉快な試み」であるのは本末転倒だ。

当然、戦争に駆り出されて殺されるくらいなら、毎日10時間ブルシットジョブに勤務していたほうがマシなのは間違いない。

……正しさはより「他人により強制される不愉快な試み」を小さくするための「他人により強制される不愉快な試み」という部分もあるとは思う。

しかし、それが不愉快だという事実、気持ちをしっかりと受け取るべきでもないだろうか?

学校のテストの点で自分達のステータスが決まったような感覚を強制させられる。何かを表現する上で、誰かに差別主義者だと言われることを怯えなければならない。強者の競争と弱者の競争の両方に勝てないと凄く損をする。いずれに勝つにしても自分しか良くならず自分の貢献欲に反する。

こんな不愉快な状況を終わらせるための正しさではなかったのか??

つまり、正しさとはまさに「他人により強制される不愉快な試み」をやっつけるための「アンチワークマン」でなければならないのだ。

そして、戦争がなく、より人々が研究をしていた社会では「研究してえ……」みたいな素朴な貢献欲によって社会が成立することになる。

つまり、今後は豊かさと正しさを考える上で以下のパラダイムシフトが必要となる。

ベーシックインカムを実現する方法のアクセルとブレーキの相反を認めた上で、そもそも真の豊さとは「他人により強制される不愉快な試み」がないパラダイスさにあると定義する。

そしてアクセル・不自然な協力、ブレーキ・正しさの双方に「他人により強制される不愉快な試み」があることを認める。

その上で、お互いのもつ「他人性、強制力、不愉快さ」を軽減するためにアクセルとブレーキを補完させる。まさにその軽減のためにアクセルとブレーキの両者を使いこなす社会を目指す。

真の豊かさとは「貢献欲によって行われる協力」である。

アクセルの側から見ると、真の豊かさとは「強制力・暴力性=他人により強制される不愉快な試み」を排した「貢献欲によって行われる協力」である。

そしてアクセル(強い価値判断)をするときは、まさにそれが豊かになることそのものに着目して、「強制力・暴力性=他人により強制される不愉快な試み」を最小化するために行う。これで国防なども含めることができる。

真の正しさとは、より「他人・強制・不愉快」ではない代替方法に変えていくことである。

真の正しさとは「強制力・暴力性=他人により強制される不愉快な試み」をより小さくするための「他人により強制される不愉快な試み」でありつつも、その問題点をはっきりと認め、より「他人・強制・不愉快」ではない代替方法に変えていくことである。そしてその目的はアクセルをまさに豊かになることそのものに集中させることにある。

こうして、ベーシックインカムを実現する方法を捉え直すことで、真に正しくて、真に豊かな社会を目指すことができる。

そして人々には貢献欲があるからこそ、この定義で真の豊かさと真の正しさを人類が理解できたら、世界平和、労働のない世界が達成される。

ようはベーシックインカムちゃんねるの主張するアクセルとブレーキの使い方を、アンチワーク哲学を元に変えていく必要があるのだ。








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