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肩にふれた手のひら

その朝はいつもより10分くらい早めに家を出て駅に向かった。
毎日が仕事に追われる日々。
頭の中で今日やるべき事を考えながら電車に乗り、座ると同時に軽く目を閉じた。
慌ただしく、とても欲張りな毎朝の時間。
朝食にお弁当、洗い物、犬の散歩、化粧、長い髪を念入りに整える、そして帰宅時に嫌気がささぬようリビングを整えて出かけるまで、短い時間にあれもこれもと詰め込む。
どれも自分自身が、あきらめたくないのだから急ピッチは仕方が無い。
だから私にとって通勤はゆっくりできる大切な「自分の時間」なのだ。

電車を降りると、周りの人に迷惑をかけないよう速度を合わせて階段を上がり、今度は乗り換えの人波をすり抜けて歩く。
少し大袈裟に言うと、まるで産卵する鮭の遡上のようでもあり、ボールを持って相手をかわしながら走るラグビー選手のようだ。

やがて人がまばらになりコンコースの端を歩いていると、白杖を持った年配の男性が戸惑う様子で、同じ所を回るように歩いていらっしゃることに気が付いた。

「何かお手伝いできることはありますか?」と男性に話しかけると、
「すみません、多機能トイレの入口がわからなくなってしまって。以前も使用したことがあるのですが、何だか方向を間違えているようなんです。おかしいなぁ。」と男性は首をかしげて私に話してくれた。
「多機能トイレはすぐ近くですよ。こちらの方向です。ご案内しますね。」
そう言って、私は男性の背広の両肩にそっと手を当て、体の向きを多機能トイレの方向にゆっくりと回して差し上げた。

そして、多機能トイレの前までお連れして
「ここが入口ドアの正面になります。今、前のかたが使用していますので、こちらでお待ちください。」そうお伝えした。
男性は、「ありがとうございます。」と笑顔で会釈をしてくださった。

その後いつもは素通りするベンチになぜか私はふと腰を下ろした。
この数分間の余韻に浸りたかったのかもしれない。
手のひらには先ほど男性の肩に触れ、方向を変えて差し上げた時の、背広の生地の感触がまだ残っていた。
そして凄く温かいものがこみ上げ、それは涙となって私の瞳に溢れた。

ベンチで足早に行き交う人たちを見ながら、人は人の役に立つことによって、こんなにも癒やされることを知った。

私の中の新しい感情を見つけた朝だった。


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