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三島由紀夫「雨のなかの噴水」

三島由紀夫は「意味」に憑かれた作家だった。

氏の「葡萄パン」という短篇に、

(略)世界の富と愛とあらゆる意味を満載したまま難破した船を、彼らはどこかの海に見つける筈(はず)だった。

という描写がある。
短篇中のビート族への皮肉は交ざっているが、三島由紀夫という作家は確かに、「あらゆる意味を満載したまま難破した船」を探し続けた作家だった……というのは言い過ぎか。

「雨のなかの噴水」の話に戻ろう。
この話は一見(他愛ない)"少年と少女の別れ話"に見えるが、実際はもう少し奥行のある作品だと筆者は思っている。

「人生で最初の別れ話」を「ずつと前から夢みてきた」少年(明男)が、少女(雅子)に「お布令(ふれ)のやうに」別れを告げるのが小説冒頭。

しかし、少女は泣き止まなくなる。少年は「雨のなかの噴水。あれと雅子の涙を対抗させてやらう。」と考える。
しかし噴水の近くにたどり着くと少年は「自分をとり巻くこの雨、この涙、この壁みたいな雨空に、絶対の不如意(筆者注:思い通りに行かないこと)を感じ」る。
「それは(略)かれを押へつけ、彼の自由を濡れた雑巾(ざふきん)みたいなものに変へてしま」う。

やがて、少年は噴水に「眺め入つて」しまう。
だが、そのうちに彼は「雨の中の噴水は、何だかつまらない無駄事を繰り返してゐ」るように感じる。

「さつきの冗談(筆者注:雅子にお前の涙も噴水には叶わないと告げたこと)も、又そのあとの怒りも忘れて、少年は急速に自分の心が空つぽになって行くのを感じた。
その空つぽな心にただ雨が降つてゐた。」

最後、その場を去ろうとする少年に雅子は、少年の別れ話が「きこえ」ていなかったことを明かし、「何となく涙が出ちやつたの。理由なんてないわ」と告げる。
それに「怒つて、何か叫ばうとした少年の声は、たちまち大きな嚔(くさめ)になつて、」「雨のなかの噴水」という短篇は終わる。

「天人五衰」で、転生者の跡を追う本田に対して聡子がその存在を否定する下りがあったが、それと似ている。

「雨のなかの噴水」で、少年は初め意味を求める。「人生で最初の別れ話」という「意味」のために雅子に別れを告げ、雨のなかの噴水まで「雅子の涙を対抗させてや」るために連れて行く。

しかし、途中で少年の心は「空つぽに」なる。「意味」の喪失である(同時に噴水も「無駄事」に変わる。)。

しかしここからまだ転調がある。
少女の涙にも、「意味」はなかったのだ。

どうしょうもない「意味」の不在のなかで、限りなく無意味な「嚔」は少年から出る。

自身の信じていた意味も、世界が持っていたはずの意味も「嚔」のような「偶然性」に呑み込まれて消えていく。
そこで人は何を信じ、生きていけばいいのだろうか。

大げさかもしれないが。しかし、単なる「可愛らしく見えるコント」(「真夏の死」解説より」)には収まらない、三島の根源的なジレンマを示す作品として、充分読むに足りる作品だと思う。

(追記)世界から意味が喪われるといえば、村上春樹氏「ノルウェイの森」のラストの「僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。」を思い出す。

発表年は昭和三十八(1963)年、三島由紀夫38歳の作品。


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