日本の戦争文学/古井由吉「朝の男」

「朝の男」前半6ページ―対義語に目を向け読む

単行本「白暗淵」収録。全19ページ。
以下は冒頭の文。
「物を言わずにいるうちに、自身ではなくて、背後の棚の上の、壺が沈黙しているように感じられることがある。沈黙まで壺に吸い取れたその底から、地へひろがって、かすかに躁(さわ)ぎ出すものがある。」

文章にとっつきにくさを感じた方もいらっしゃると思う。
ただ、しばらく「朝の男」はこうした文章が続く。少し我慢して読んでほしい。道筋のある文で、注意すれば明快だ(ただどうしても難しく感じるなら飛ばして、後半から読んでもいいと思う。しばらくスクロールするとある)。
今回は「対義語」に着目しながら読んでいく。

この段落では、「沈黙」と「躁ぎ出す」が対義語だが、その両者が混ざる。
ここに「朝の男」の文章の特徴がある。
次の段落では(以下数字で表記)沈黙の持つ可能性が語られる。
「閑寂とは(略)瞋恚(しんい)の極みの無言でもあり得る。」
(閑寂が「ひっそりしてさびしいこと」、「瞋恚」が「(思い通りにならないことへの)怒り」。)
やはり「閑寂」と「瞋恚」―逆の言葉が結びついている。
(2)段落は、「無言は揺らいで、破れかかる。」―(1)段落の反復を思わせる記述の後
「刻々の先送りとなる。溜息も吐いてはいけない。どんな呻きを誘い出すか知れない。」―短文の連続が固有のリズムを作っている。

(古井氏の言葉)「だから音律にも耳をやって、少しでも自分離れするために書き直しているようなところがあるんです。」―こうした文章の意味の前にある「音」を楽しめるのも、筆者が古井氏の作品を愛する理由である。以下の記事から引用。

(3)段落は短い。
「それでも無言の内はとにかく、静かには違いない。」
これは(1)(2)段落の要約のように読めるが、「躁がしさ」が抜けている。 ひとまずのまとめ。

話が少し変わる。
(4)段落では「或る人」が「まだ若」かったとき、「何日もひとり(筆者注:部屋に)籠って、(略)黙りこんでいた」エピソードが語られる。
しかし、「それで静かであったかと言えば、躁(さわ)がしかった記憶が残った」
ここでも「静か」と「躁がしさ」が混ざる。
(5)段落は(4)段落を継いでいる。
「或る人」―青年らしいこの人物は「躁がしさは自身の外にあると感じ」ていた。
「(略)繁華の往来の足音が風の加減で天から降るのに似ている。」
この段落は全部で11行あるのだが、注目するのは5.6行目―「(略)ざわめきが(略)声でもないのに、呼んでいる。」
「(略)はしゃいでいるようでもあり、険悪なようでもある。」―やはり対義語が混ざる。

「それに応えて」別の「つぶやき」は「出迎えて一緒に躁ぐか、(略)後も見ずに走るか、と思案している。」―「後も見ずに走るか」は初めの「ざわめき」から逃げ出すことだろう。
「しかし(略)踏み出すのは(略)無力感から出た恣意にほかならない」―迎えるか逃げるかは思いつきが決めることだと語られる。
ここではひとまず、
(1)聞こえる「ざわめき」が両義性(はしゃぐ/険悪)を持つこと
(2)それに応える「ざわめき」も両義的(出迎える/逃げる)であること
(3)結局「無力感」が決める
この3つが読めていればいいと思うのだが。
(このあたりから、筆者にも何がなんだか分からなくなってくる。いっそ人類の集合記憶とでも思っておけばいいかも知れない)

(6)(7)(8)段落はそれぞれ短い。
(6)「その境(筆者注:無力感から「ざわめき」に応えること)も過ぎる。幾度でも、何事もなく、何処(どこ)へも越えずに、過ぎる。」人生は続く。

ようやく青年の話に戻る。(7)「人が戻って来て(略)言葉を交わしたそのとたんに(略)物音が耳に聞こえてきた。
(8)青年は「人と人の話す空間はどんなに静かであることか、と驚いたという。」(好きな文)

(9)〜(20)段落は話がまた変わる。以下まとめる。
(9)地震で「倒壊するおそれのある高層の建物が、(略)無事に立っている。」

(10)「高層の建物」(ビルやマンション)は「数えるにつれて増えていく。」「それらの不正に自身が手を(略)染めて来た。」この(10)段落では突然「不正」という言葉が出てくる。ではその「不正」とは何か。

(11)「夜の寝入りに、未明の寝覚めに、そらおそろしくなりはしないか。(略)阿鼻叫喚が、聞こえて来ないか。」 

(12)「考えずに来た。考えては生きていられない。」(日本の経済成長(バブル)に対する批判としても読める)

(13)「手法が定まれば、その至り着くところを思わなくなる。(略)想像を欠くことによってのみ保たれる釣合いである。」(ナチスやオウム真理教を連想する)

(14)「(略)素手の作業なら(略)行為の悪の重さが手に掛かる。(略)器械の応答からは、行為の経緯が寸断される。」 

(15)「(略)悪事は中心も中枢もない、(略)慣性による運動であるとすれば、どこまで行っても見境(みさかい)の、警戒の、信号は点ることがない。」

思考を停止し、経済を発展させ続けた日本国への疑いがここで語られているようにも読める。それが「不正」なのか。 

(16)段落の前半は(9)〜(15)段落を引き継ぐ。
「油断して仮にも安堵の息を吐けばたちまち、腋(わき)から股間から、脂汗の染み出る体感を、体臭を覚える。」
後半。「すれ違った人が(略)小手をちらっと振る。目配せが人から人へ伝わる。しかし何事もない。見棄てられた気持が残る。」―彼らは安堵した男に同情するのか、非難するのか。人々の反応にも両義性がある。

(17)(18)段落は長く、入り組んでいる。筆者はまとめきれないので、読み飛ばしてもいい。
 
(17)「年月が重なれば(略)それなりの安定に入る。日常の安定こそ、(略)そらおそろしい。(略)後戻りのきかぬところまで来ると、怖れもなげな足取りになる。(略)動じない男だと周囲が舌を巻いているという。(略)じつはいったん理非(筆者注:道理に適うかどうかの判断)を、多数の生命に関わる域まで踏みはずしてしまったからには、まともに物を言おうとしたら、叫ぶよりほかにないので、(略)黙っている。叫ぶまいとして黙っているのは、(略)それ自体躁がしい。」
ここでは「沈黙」と「躁がしさ」が〈「黙る」/「叫ぶ」〉―別の二項対立を引き込み語られている。 
(18)「(略)黙りこむ。沈黙ですらない。(略)張りつめる空白が内にある。(略)無言の承諾は(略)呻きであったように思われる。(略)徒労の極みから出た言葉は明快らしくなる。」
「黙りこむ」/「張りつめる」―「無言の承諾」/「呻き」―「徒労の極み」/「明快」―やはり対になるものが混ざる。
(19)「(略)前方は叫びをふくんで静まり返っている。」
「叫び」/「静まり」。
(20)「笑うこともある。笑いは悪相(筆者注:恐ろしい顔つき)に似る。」
「悪相」/「笑い」。
ここまでの文章は対立するものが混ざる揺らぎを書いている。と筆者は読んでいる。

「朝の男」後半14ページ―前半とのつながりに注意して読む

長く苦しい読書だったと思う。ここからは物語的な面白さがあるので、できればもう少し一緒に読んでくれると嬉しい。

ここでは主に昭和二十年の「男」―白い肌の男の話と、それぞれの年齢の語り手の話が中心になる。これだけ頭に入れてもらえると、分かりいいかもしれない。

初めの一文。
「煤煙と塵芥の立ちこめる空にゆらりと昇った気味の悪いほどに大きな、ただ赤く凝(こご)るだけで輝きのない太陽に向かって、一人の男が歩いて行く。」
その男は「足の運びに乱れもない。(略)背はまっすぐに伸びて、両手も(略)自然に長く振れている。」
「道路の両側の(略)惨景には目もくれない。」
以下は避難者たちの描写。
「夜明け頃には道いっぱいにひろがっていた避難者たちのうちで、年寄りや幼い者を連れていて慎重に残っていた組も(略)引き返しはじめた頃になり、」
男の描写に戻る。
男が「その間を(略)平静に、(略)災いにまるで触れられていないかのように、(略)まっすぐに抜けていく姿が(略)子供の眼を、すでに起こった事よりもさらにおそろしい予兆のように惹いた。」

「昭和二十年五月二十四日の未明」の「空襲の、その朝のことになる。」
「日の出は(略)四時三十分頃になるようだ。」
「黄灰色に濁った空に赤い球の掛かったのは日の出よりもだいぶ遅れた時刻になる」 
男は「顔も首も、外からのぞく手も白かった。(略)赤光を受けて男のすべてが白く映えたのかもしれない。」「あるいは(略)静かな足取りが」。
「中年の男、後からは三十代のなかばほどに思われる。長身で脚も長かった。(略)白人ではないか、と子供は見た。」
「空襲の成果を(略)素知らぬ顔で偵察して歩いている、と(略)背に目を瞠(みは)ると(略)一頭の飴色の牛が飛びこんで来て(略)年寄りがあたふたと後を追いかける。」その後も牛は「ひとところでぐるぐると狂い回っている。」その間に「男の姿は見えなくなっていた。」

「あんな朝にあんな所をスパイが歩いているわけがないと子供が自分の妄想を笑うまでにいくらの年もかからなかった。」 
ここから子供の目から見た戦争が語られる。
「(略)戦災が本土に迫る頃の子供はどこかしらでスパイに出会っている。暮れ方に(略)さびしい道で怪しい男とすれ違う。その間際にちらっと目配せされたような、行きずりに見こまれたような、秘密の後暗さが(略)口を噤ませた。」
スパイとは単なる敵国の者ではない。
「スパイとは先のことを、いつか降りかかる災いを、何もかも知っている者だった。(略)捕まれば殺される者だった。」

語り手は「青年期も抜ける頃」に、男を思い出す。「あるいは(略)工場か何かに夜勤で勤めていた男」かもしれないと思いながら。
男の「歩く背後から記憶が絶たれる。行く手もすでに背後に変わらず、そのつど現在(いま)を踏むばかりで、あの歩き方にしかなりようがない。」
ここは語り手の想像。「行く手」と「背後」が重なるのは、前半の語りとつながる表現。未来と過去でも読みとしてはいいかもしれない。ここで「現在を踏むばかり」なのは、「行く手」と「背後」、過去と未来を男が見分けられなくなっているからか。

次の段落では語り手は「三十代の半ば」「子供のやや育った頃」になっている。
男は「家族の、安否が知れなかったのではないか」と語り手は考える。「この程度の被害なら(略)先の方も大したことはないのかもしれない、とそれでも望みをつな」ぎながら歩いたのではないか。
男は「東京中、火の海だってねえ、どこへ行っても同じことさ、と甲高い声をかけられる。」
その声は「(略)ここももう近いうちだとはお見通しだったよ、これでサッパリ、年貢を収めた気分だ、と(略)はしゃぐ」。
声の主は「戦闘帽はかぶっているが頭のもう禿げあがっているらしい男」。その「足取り」は「夜店でも冷やかす気ままらしい」もの。
「(略)その後から、防空頭巾をまだつけた細君らしい女と小学校の高学年の女の子が見るからに暗くうなだれて(略)従う。」
それから男は「坂道の口からうっすらと吐き出される白煙の中へ、帰って行った。」
次の段落は廃墟の描写に多くが割かれている。少し長いが引用する。

「空は黄味をふくんだ暗色に閉ざされて、明けたともつかず、地表から白み出す。それにつれて道の両側の煙の中から残骸がつぎつぎに、集まってくるように現われる。黒く焦げた柱が大小さまざまな得体の知れぬ杭のように立ちあがる。頭(かしら)を焼かれた樹が手先の欠けた腕を天へ伸べて、焼跡をさまよう人影に見える。まれに難を免れた家屋の、無事のたたずまいがなまじ、まがまがしい。」
そこから男の心中に記述は移る。
「(略)昨日までのことが遠くへ断たれる、家へ向かうこの歩みだけが昨日を繋ぐ。(略)時間も空間も永遠の相を剥いている。(略)足を停めてあたりを見まわしたら最後、魂が振れて、昨日と今日との間にぽっかりあいた宙に迷い出し、妻子の安否も忘れることになりかねない。」
―書いてあることは負の出来事なのに、筆は踊っているようだ。この暗い高揚感(筆者が勝手に読み取っているだけかもしれないが)も、古井氏の小説の魅力ではないか。
次の段落も廃墟の風景と心中が混ざる。

「血の赤さの太陽がいきなり行く手の中空に掛かった時には、ただ今の今を踏む足取りになっている。」
少し前の記述「現在を踏むばかり」の反復か。
「焦げた柱も樹木も、崩れた壁も赤い光を受けて、やわらかな影を流している。(略)長閑(のどか)だ、狂ったように長閑だ、とつぶやいては、その声の長閑さをまた狂ったように感じる。」
「長閑」と「狂い」が混ざりあう。

語り手は「五十歳を越した。」「子供たちは成人し」ている。
彼はまた男のことを思い出す。
「しかし家の焼跡にぼんやりと立つ妻子を遠くから目にして駆け出したのを境に、(略)時々刻々を踏んできた自身は、背後に置き残される。」
「(略)目前の欠乏に追われ、(略)どうにか飢えと凍えからは逃げ切り(略)十年二十年経って老年へ踏み入った自分に気づく頃、あの朝がいつか前に回りこんで、変わらぬ足取りで先を行く、その背が見えはしないか。」
段落が変わり、語り手に文が移る。
初めは幼年期。「まして見送っただけの子供にとっては(略)遠ざかって行く後姿だった。(略)幻影に近いものだった。」
語り手が「成人」のとき。「(略)異変の中で日常の平静さを保つ人間の姿は(略)まれに無傷に残った家屋と同様に、まがまがしく映るものか」と「思い出して怪しみ」、
語り手が「中年に入ってからは」「妻子の安否の知れぬ男の不安を、落着きはらった足の運びのうちに見るようになっても」
それらは「赤の他人の背をしばし見送るだけのことだった。」
ここでは「朝の男」の語り手のここまでの視点がまとめられている。
「五十も過ぎて」―今の語り手は「男の背に自分の影を見ていることに気がつく折があ」ると語る。
次の文。
「人は自身のたどって来た道をじつは知ることがなく、(略)他人の背に、(略)目を惹かれて初めて、自身の来た道が背後に伸びて、わずかに見えてくるのではないかと疑った。」
語り手の思考は続く。
「分身というものを思った。(略)いくつかの辻のようなところで自身を、後へ置き残すか、立ち去るのを見送るかして、別れて来た。」
「それらの片割れたちと、年が詰まるにつれて、そこかしこで出会う。(略)どれも、長い道の涯(はて)に近くまで来て、ようやく一生の運命を悟りかけたふうな背を見せる。」
外的な存在だった「男」の背が、語り手の「分身」―内的な存在へと代わる。
「(略)見ず知らずの人間について行ってしまった分身もある。」

ここからもう一度「男」の話になる。
「ところが白い男の、「消息」を耳にすることになった。」
「(略)男を、見たという男性に出会った。」
ただし「同一人物ではあり得ない。」
ここからその男性の幼年期―戦争が3ページほど語られるが、省く。
「男は焼野原の間を抜ける長い道の途中に立っていた。(略)懐から手帖らしいものを取り出して書きつけ、満足そうな様子で歩き出した。」
「静かな背中だった。その背の通り過ぎる後から、一面の焼跡が黒く焦げた腕を伸ばして躁ぎ出す。」
冒頭の反復。「静か」/「躁ぐ」。
「防空壕の(筆者注:幼年期の男性は防空壕にいたが、火炎放射に怯え人々は逃げ出し、彼も外に出た)中で押し殺された悲鳴がいまになり天に立つ。」
「静か」/「悲鳴」。
「男は(略)自分はこの手をいっさい下していない、と背後の叫びを振り払うように見えた。」

それから、「朝の男」は奇妙な幻想を提示して終わる。
「後をつけていた」子供を振り払うように男は「足を速めて行く。その背丈が歩むにつれて高くなり、屈(かが)まった家々の軒まで届いて、家の内をのぞきこんでは一人でうなずくように、笑うように見えて、薄い影が後へ長く伸び、紫掛かった色合いをふくんで、はっきり濃くなったかと思うと、家から家へ軒が赤く染まり、軒下に並んだ鉢植えの葉も赤く照りわたり、行く手の灰色の空にゆらりと、火の塊のような太陽が昇った。」

この幻想は禍々しい。にも関わらず、人をたぶらかす魔力に満ちている。

もし無理になにか言うのなら(良い小説は解説を拒むものだ)、「朝の男」でこうも対義語が崩れるのは(もともとの古井氏の作風もあるが)、日常のなかに入りこむ戦争と、戦争のなかの日常―そうして常に曖昧な現実が「朝の男」の通奏低音としてあるからではないか。
だから、私たちが今生きているこの今日も、どこかしらに戦争を含んでいる。どんな戦争のなかにも日々があるように。
そしてそれは「戦うか、死ぬか」―単純な二項対立を使って人々を操ろうとする権力に対する私たちの側の答えとしてあるのではないか。

ただ、そうした杓子定規な読み方だけではない。人間の狂気に対する作者の強い関心もまた「朝の男」から読み取れるものだ。筆者は江戸川乱歩の作品を連想した。
思えば狂気とは、「善悪」の彼岸にあるものか。分かったようなことを書いて、この下らない解説を終わりとする。

(余談)単行本の表題作「白暗淵」(しろわだ)も戦争を扱った短編で、二人の青年が世界の成り立ちについて話す。
またタイトル「白暗淵」は元々「黒暗淵」(やみわだ)―聖書の言葉だ。
それから偶然、スティーブン・ミルハウザーの「夜の声」を筆者は借りていた。「白暗淵」と並べると白黒きれいだ。
表題作「夜の声」は旧約聖書のサムエルと、彼を夢見る少年、それから半世紀近く経ち作家になった老人の3つの時間が流れる優れた短編なのだが、こちらでも「黒暗淵」が(注釈だが)出てくる。
まさかミルハウザーと古井由吉が(小さくとも)つながるとは。ちょっとしたハプニングだった。

現在、戦前讃美が蘇っている。すべてが悪いとは言わないが―何にせよ行き過ぎは害をもたらす―、発言者たちの言葉はいつも奇妙に抽象的で、その人なりのリアリティに欠けている。
そうした時代に生きる人間として、「個人にとっての戦争」を調べようと思い、こうして書いた。
これからは第二次戦後派、第三の新人たちを中心に、日本文学で戦争はどう書かれてきたかを調べるつもりだ。
次の記事まで間が空くかもしれないし、その記事もまとまりに欠けるかもしれないが、見つけたら少し読んでくれると嬉しい。
本当に長い記事だった。読んでくれてありがとう。




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