見出し画像

町田康「バイ貝」

全編通して、金をどう使うかの話。
しかし、主人公が買う草切りバサミはキレがいまいち、中華鍋は焦げつく、カメラは砂が入って壊れる。なにやってもダメ。
まとめると、いつもの町田節だ。

ページ数は196ページだが、かなり軽く読める。
内容としてはエッセイに近いのに、やはり小説だと感じる。違いはどこだろうか。

(余談)太宰治の話。
太宰治の小説は、「正直嫌いだ」と言う人がいっぱいいる。
良いことだ。
私も、太宰治とサリンジャーと「星の王子さま」が好きな人間にろくなやつはいないと(元は柴田元幸氏の言葉)思っている。
三島由紀夫を加えてもいいが、それだと私まで対象に入るので勝手に外している。

太宰治の作品は、「堕ちたキリスト」を思わせる。実際、聖書が小説中に出てもくる。
その、無駄に「ヒロイックな」、もっと言うと「酔ってる」感で、太宰が嫌いな人は多いと思う。

そういう人には「親友交歓」を薦めるが、そんなことはどうでもいい。この話が町田康氏の「バイ貝」とどうつながるのか。

筆者は、太宰は好きとも嫌いとも言いがたい。
ある日急に読みたくなるが、好きではない。作品の質もときには低い。

ただ、確かに一度深く「響いた」(というのも太宰的大げさな言葉だが)のは事実で、何だろう、作者太宰が落ちぶれていることにはどこか、「私の罪を肩代わりしている」感覚があった。「原罪を贖っている」感覚。

それこそ太宰の自己陶酔に呑まれただけの気もするが、小説を読んで神聖なものに触れた感覚は、未だに太宰がトップである。

筆者は、町田康という作家も、太宰の系譜にいる―ような気がしている。
彼の小説は、古典翻案ものを除き、それなりに読んでいるのだが、人の感想を見ていると、「よくわからない」という声がよく聞こえてくる。

筆者も、最初氏の「きれぎれ」を読んだとき、作者はふざけているのかと思った。だが、それは違った。

二つ、話しておきたいことがある。
一つは(付け焼き刃の知識だが)マルクスの提唱した「疎外」について。
最近呼ばれている「ブルシットジョブ」もここに入るだろう。

筆者の理解の限りだが、たとえば、コンビニで働く一人の人間を想像してほしい。
彼は伝票処理をしたり、商品の陳列をしたり、何かとすることがあるだろう。

しかし、ここで彼(女)が、バスケットボールが得意か苦手か、また、ウサギが好きかそうでもないかは問題にならない。
五体満足で、それなりにコミュニケーション能力を持つ人間ならば、コンビニで働く彼(女)はAさんでも、Bさんでも、あなたでも私でもいい。

こうした、「労働」と「労働者の人格」が切り離されている状態をマルクスは「疎外」と呼んだ。

もう一つ。戦場の、一人の兵士を考えてほしい。
たとえば、彼は大砲に砲弾を詰める。あるいは、敵兵士の心臓を狙って銃を撃つ。

このとき、彼が良心の呵責を覚えたかどうかといったことは、コンビニの店員のケースと同じく、考慮されない。要は、結果として彼の行動が一人でも多くの敵国の人間を殺す結果につながれば、彼の―兵士の―「人格」というものは、限りなく意味を持たない。
究極的には、それは意志を持たないロボットでも代わりができる。

町田康の小説は、一見「無意味」に見える。
だが、本当は町田康という作家は戦争をしている。
あるいは、彼は全てのコンビニ店員たちの代弁者だ。

彼の小説で主人公は、いつも無意味な事態に振り回される。
そして、しばしばその原因は馬鹿馬鹿しい。一方で、その馬鹿馬鹿しい原因のもたらす結果はしばしば残酷なものだ。
それは私たちの生活世界と、また、戦場と似ている。

北野武監督作品で、観客の理解の前に振るわれる暴力、人の死が描写されるが、それに町田氏の作品は似ている。読者には何も理解できないままに、小説は進み、その理解できない世界のなかで、人が無意味に死ぬ。暴力を振るわれる。そこに、読者が優しく「共感」できる場所はない。

だが、私達が生きている世界は、もう「町田康的な」世界ではないのか。ただ私(たち)が、それに気がついていないだけではないのか。

そうした気持ちで「バイ貝」を読んだとき、ただの滑稽な金回りの話は、コンビニ通いも板についた、かつての救世主の果ての物語だと読める。奇跡の一つも起こす力を持たず、すっかりくたびれ、誰にも喜ばれない受難劇を演じ続けている。

続編に「珍妙な峠」。まだ読んだことがない。読んでみようと思う。






この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?