三島由紀夫「蘭陵王」(追記)
発表年は昭和四十四(1969)年。三島由紀夫44歳。
ところで、(追記:短編で必要なもの?「短い」ことに決っていると思うのだが。)短編で一番必要なのは構築能力だ。
「長編」の間違いではと思われるかもしれない(追記:間違いだ)。
いや。短いからこそ、余計に緊密な構成がいるものなのだ(追記:短いからこそ構成を持たない良い短編があるのは皆さんご存知のはずだが。どうやらこの筆者さんはよほどの物知らずらしい)。
あくまで筆者の勝手な論だが。
それで言うと、「蘭陵王」は当然、できが悪い。
第一、この時期の三島が自作に集中できるだけのゆとりを残していたかどうかすら怪しい。
だから作品の出来の話はここで止める(追記:なら初めから持ち出さなければいい)。
あらすじは簡単。三島のやってた「楯の会」で、学生の「S」が「蘭陵王」―雅楽―を聞かせてくれる。そんだけ(追記:その前に三島本人を思わせる語り手による、「楯の会」の活動にまつわるエッセイ風の下りがある)。
そうだ、先に話しときたいことがあって……最後の文の抱えた謎について。
(追記:「蘭陵王」を聞かせた「S」の発言)
この下りがさっぱり意味がわからない。
あるものは三島のこけおどし(読者に謎をかけた)のだといい、あるものは三島と若者「S」との相互理解の不在を暗に示しているのだ、という。
で、私も考えた。分からなかった。そしてそこまで考えることでもない気がした。
一応書くと、「もしも考える敵が同じなら」戦があるわけだ。
(この「敵」も戦後日本なのかアメリカなのか自衛隊なのか左翼学生なのかさっぱりわからない)
だから、まあ、私の考えた現在の答えとしては、「あなたと私は共通の敵と戦うべきだ」という、学生「S」から三島への(追記:暗黙の)「発破」みたいなものだったのではないかと。「おいおっさん、笛聞いてたらたらしてんじゃねーっ!」(追記:「この腐った戦後日本にドロップキック食らわせたろー!」)と。
笛の音の描写で気になるところ。
ニヒリズム、とも違う。「美」と「滅び」「破壊」「暴力」が隣り合わせになった、異質な世界。彼岸、あの世を思わせる描写。
それから、語り手はこの前に「皮膚といふもののふしぎな不可侵」を考える。
「汚濁も疲労も癒やされず」「私たちを泥土に帰せしめてしまふ」と語り手は続けて語る。
「皮膚の(略)清さは、その円滑で光沢ある不可侵性によつて保障されてゐる」。
これは三島の「存在不安」ではないか?
(追記:この筆者はいつでも問いかけている。心のなかによほど多くの「?」があるのだろう)
本当に強い、健康な体を持った人間は、こんなことを考えない。
猫背の私さえ、自分の肉体が「泥土に帰」るなど想像もしない。
ここに三島由紀夫の「怯え」をつかの間見たように思うのは私だけか。
(確かに、この後語り手は「すがすがし」く「疲労から」「よみがえ」ったと語るが)
北斉の蘭陵王は、「やさしい顔立ち」をしていた。しかし戦のため、「是非なく獰猛(だうまう)な仮面」(「龍を象(かたど)つた怖ろしい」)を被った―。
ここに三島の「告白」(仮面の)を読むのはさすがにやり過ぎだが、しかし「蘭陵王」の語り手は、
「本当は死がその秘密を明かすべきだつた」とも言う。
なぜ、蘭陵王が「やさしい顔立ち」をしていた「秘密」が「明かすべき」ことなのか。
これは筆者もいまだにわからない。ぜひ読んで、私と苦しんでほしい。
(追記:この「べき」は意志の「べき」ではなく、当然の結果の推量としての「べき」ではないか?)
(追記)「獰猛な仮面」が蘭陵王の「やさしい美しい顔」を「永遠に護」る。三島の「文武両道」は、もしかしてこういう話なのか。
(追記)どうでもいいが、つい前に読んだ村上春樹氏の短編に「謝肉祭」というものがあって、こちらも仮面の表裏の話だった。人間とは何者か、という問いはそのまま、「仮面の裏と表のどちらが本当か」という問いに置き換えられる。そんな事を(筆者は賢ぶって)考えた。
本当などないのかもしれないが。
(追記:音楽は片や蘭陵王、片やシューマン)
(追記:引用する気力がないが、「金閣寺」にも笛についての美しい記述があったはずだ)
(追記:三島由紀夫には「音楽」という、精神分析を題材にした長編小説があったが……さすがに関係はないだろう)
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