雑文+三島のややマイナー長編

かわいそうな作家といえば個人的にはヘミングウェイが思い浮かぶ。晩年二度も飛行機事故に会ったのだ。
中上健次もなかなかだ。バブル景気の軽薄で浮かれた空気は彼の土着の死と生を扱う文学をぶち壊した。
カート・ヴォネガットも作家人生の後半は親の介護に追われた。
女性作家も一々言葉にしないだけで、育児や介護に追われたケースは多かったはずだ。
たとえば、幻想小説家の山尾悠子氏は育児がきっかけでしばらく断筆していたはずだ。
「第七官界彷徨」の尾崎翠氏も、その若い才がみすみす埋もれてしまったのは悔やまれる。
 
また、あのラディゲや梶井基次郎や堀辰雄(は割と生きたが)が長生きしたらどんな作品を残しただろう。
二次大戦で軍部に殺された多くの若者のなかに、本当はノーベル文学賞を取る未来のあった者はいただろうか。今の中国やロシアにも自由な言葉を持てない人々は大勢いる。

軽く書くはずが深刻めいてしまった。筆者が言いたかったのは、だが何と言っても三島由紀夫ほどかわいそうな作家はなかなかいないということなのだ。

いやいやいや、三島由紀夫なんて、立派な作品を残して、名前も残して、ついでにろくでもない右翼どもを残して、(ただし「一水会」は知る限り立派な右翼だ)死んだじゃねえか。
だが、よく考えてほしい。タイトルだけでも知っている三島由紀夫の長編が、果たしていくつあるか。
「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」……次点で「美徳のよろめき」「鏡子の家」「美しい星」「午後の曳航」「豊饒の海」などが出てくるか。
しかし、実際に読んだ人なら分かると思うがここに並んだ作品で成功作はほとんどない。
うっそーん、だってあの三島じゃん……と思うが、まず、「仮面の告白」「潮騒」については、三島本人が否定的なコメントを残している。いわく、「仮面の告白」は後半が急ぎすぎていてだめだ、「潮騒」の自然描写は書き割り同然、と。
三島といえば「ナルシスト野郎」という風聞が絶えないが、それは彼の柔らかい部分を覆う鎧であって本来、自作に対してフェアな評価のできる自己批判的な作家だった。

その他作品について。 
まず、「美しい星」は自分たちがそれぞれ火星人や水星人、木星人だと信じた一家の話で、たぶん江戸川乱歩ならケレン味たっぷり少年探偵団シリーズとして傑作にした、夢のある設定だ(完全なる余談だが筆者はキリンジの「エイリアンズ」がすごく好きだ)。
ところが、三島由紀夫は人間が信じられない。結局、露悪趣味の凡作にしてしまった。

「午後の曳航」は美しい水夫が日常(と女)にたらしこまれて凡庸な家庭人に化けていく様を書き、それに猫を解体する残酷な少年たちのグループのエピソードまで加えた、これだけ聞くと面白そうな作品なのだが、なぜか全然面白くない。
なんと言おうか、三島が登場人物たちの心理に入り込み過ぎなのだ。
そこはヘミングウェイやチャンドラーを見習って、単に行為だけ描ききれば、村上春樹「海辺のカフカ」や大江健三郎「洪水はわが魂に及び」みたいな、娯楽性と文芸性を兼ね備えた楽しい作品になったはずなのに。心理描写が、たらたらたらたら、結果的に作品の品位とテンポを下げている。

「豊饒の海」は、小作主が小作人に急いで作物のかき入れをさせたような作品で、特に「天人五衰」はタイトルそのまま文章まで衰弱している。何が日ざかりの庭だ。

「鏡子の家」は筆者の書いた天才的な感想がある。

それで、「美徳のよろめき」の話だが、前半は絶好調。何しろこの前が三島唯一の成功作と言っていい「金閣寺」。次が偉大な敗北作「鏡子の家」。節子というちょっと夢見がちな上流階級婦人と、現代風のスカした若者土屋の不倫を書いた佳作……そう、前半は。

元々三島は不義の恋(≒夢)が正統な恋(≒現実)を超える作品を、短編は「頭文字」から、長編は「春の雪」まで書き続けてきた。得意分野のはずだ。

だが、節子も土屋も深い内省や人としての矜持があるタイプではない。三島が途中で書くのに飽きた。そうとしか思えない。
何しろ後半、節子は謎の爺さんに会いに行き、なぜか

男ってあんなに孤独になれるんだわ

なんて呟きだす。もうめちゃくちゃだ。

だが素晴らしいところもある。三島の小説のいいのは、200ページの内199ページが肥溜めでも残り1ページに天使が羽休めをしているところだ。
「美徳のよろめき」については、178ページの内171ページが肥溜めであり、残り7ページで天使が羽休めをしている。
だが人生は春の夜の夢、皆さんが肥溜めに浸かっている暇はないので、本記事を読んだ方々は今から筆者が指摘したページのみ読み、残りのページは破り捨て、暖を取るか尻を拭くのに使うのをおすすめする。

まず、第六節。これが素晴らしい。節子と土屋は映画を見ているのだが、突如停電が起こる。以下はその場面。

今まで明るかった街が、にわかに闇にとざされるのは凄愴せいそう(※何か酷たらしいほど壮絶)なながめである。交叉点の信号も消えてしまった。交通巡査が提灯をかざして、交通を整理しはじめる。車道には自動車の前燈ばかりが、ほとばしり、ひらめいて、闇をその不安な光りでつんざいて過ぎた。
(略) 
二人(※節子と土屋)はとある新聞社の発送部の前をとおりかかった。発送部の内部は真暗な洞窟のようで、トラックが数台黒々と止っている。大ぜいの男が闇の中に動いている気配がする。その中の一人が叫んだ。
「猪苗代の発電所に爆薬が仕掛けられたんだぞ。爆発だ。発電所が爆発だ!」
(略)今の闇の叫びは本当だろうか?(略)革命か、あるいはそれに類した暴動が起こりつつあるのか?
「暗いうちにうんと焼酎を呑んどけや!」
発送部の闇から、今度はこのような叫びが起り、それにつれて大ぜいの元気のよい笑い声が起った。

結局、この夜のただならぬ椿事の予感(≒戦中)は

(略)節子はゆうべの停電が、猪苗代湖発電所の送電線に落雷したためだという新聞の記事を読んだ。
「ゆうべ、雷なんか鳴ったかしら?」
節子はそう言った。
「いいや、鳴らないね」
良人おっとは答えた。

という、平凡な日常性(≒戦後)に継ぎ目なく繋がれてしまう。
何も起きず、批判さえ平たく均してしまう空っぽの戦後。(三島がもし「あさま山荘事件」を見たとしても、きっと「二・二六事件」の安っぽいパロディとしか感じなかったと思う)
三島由紀夫はいつもこの世の果てにある彼岸・夢を見ながら、戦後という現実にそれを許す余地もないことを知っていて諦め、けれど諦めきれずにまた彼岸・夢を見る。
氏の最良の作品では、それは何度もたわめられた活断層のように深い傷口となって、読む人を否応なく引き込む暗い引力に変わる。
それで筆者は三島由紀夫が好きだ。

残りの2ページは、二人が裸で朝食を取るところ。世界が静かに充たされていく子どもの歓びの気配がどこかに隠されている。「パンの粉を平気でこぼし」というのがすごく素敵なのだ。

それぞれ46〜50,63〜64ページ。よほど暇な人は読んでほしい。

(あまり関係ない話)
しかし、やはり階級社会の崩壊は不倫にとって大ダメージだった。
「葉隠」という武士の本義を説いた―三島も好きだった―本に、恋というのは忍んで忍んで、狂い死ぬのが最上―とか書いている。なるほど階級社会では忍ぶ恋の美しさはたしかにあっただろう。だが今、男も女もユニクロを着ている現代社会で恋を忍ぼうと晒そうと大した違いがない。

社会が規範や方向性を強く有しているとき、不義の恋は社会制度とぶつかり、美しい火花を散らす。
だが、戦後の日本は夏休みの宿題を解くのが嫌で学校に行くのを辞めた子ども(元は押井守氏の発言より)のように、二次大戦も、学生運動も、バブルも、オウム真理教も、その後の長い不景気の時代も、社会全体としての反省を放置してきた(個人単位ではきちんと取り組んだ人々がいたが)。
そんなずさんな社会で不倫などしても、魅力はない。燃え上がるものもない。何しろ闘う相手がいないのだ。

穂村弘氏の短歌に

胡桃割り人形同士すれちがう胡桃割り尽くされたる世界

という作がある。これを読むたび三島由紀夫を思い出すのだ。
不倫も純粋な愛も、ナイフを持った卑劣漢も徒手空拳の英雄も等しく意味を失くした戦後に、三島という胡桃割り人形は胡桃を見つけられただろうか。


 

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