鴎外の「秀麿もの」

「五条秀麿」という人物を使って書いた鴎外の連作短編がある。
「かのように」
吃逆しゃっくり
「藤棚」
鎚一下ついいっか」の4編。
これについての感想を書いていく。

一番長い秀麿もの。
秀麿というのはヨーロッパを回っていた貴族の息子(だったはず)なんだけど、帰ってからは書斎に閉じこもってばかりいる。父親も心配している。
秀麿が気にしているのは、神話や宗教のあやふやさ。それは彼がヨーロッパ(ドイツだったっけ)で知った「近代理性」と、どうしても反りが合わない。

そこで秀麿は思いつく。
「かのように」の精神が必要だ、と。
この「かのように」精神とは、
(1)「キリストが蘇った」とは嘘である。後世のでっち上げである。
(2)しかし「キリストが蘇った」を信じなければ、キリスト教は成り立たない。
(3)それだと下手すれば「共産主義」や「無政府主義」がはびこる。国が滅ぶ。
(4)そこでこれからは「キリストが蘇った」「かのように」扱う。よし世界平和だ。

という、何とも机上の空論めいた話だ。案の定「綾小路」という友人に反論されるとぐうの音も出ない。

問題は、この「かのように」が通じない時代にどう始末をつけるかなのだが、作中で語られない。
……本当に語られない。筆者も「え、ここで終わりかい」と思った。

ドストエフスキーなら答えを言うが、彼にはロシアの土着性がみっちり詰まっているからできたのだ。文明開化にアイデンティティを引き裂かれる日本の秀麿(と鴎外)には真似したくても出来ない。

もう一つ。視点がどこに行くのか分からない小説で、作者の目があっちこっちに行く。日本の小説の歴史がまだ浅いせいかもしれないが、ファンキーな面白さがある。

これも文明開化に対する批判小説と言ってもいいかもしれない。
切り花にした藤を並べて人口の藤棚を作った庭が出てくる。秀麿はその「藤棚」を見て思う。欲望を開放し、秩序を壊しても、自由になどなれない、と。

戦後日本は個人の欲望の肯定を行った。「消費の自由」と結びついた個人主義だ。
だが、私たちは今、秀麿の言う「人生の諧調(※かいちょう、ここでは整った幸福な人生の意味)の反対」に向かっていはしないか。私たちはやがて欲望の奴隷になって行きはしないか。

「藤棚」とは逆に笑える短編。
「それでは参っちまいま町」
「そろそろ退散いたしま町」―なぜか語尾が「町」の芸者が現れ、秀麿たちの真剣な議論をめちゃくちゃにしてしまう。本当に楽しい短編。

鴎外が「興津弥五右衛門の遺書」などの歴史小説を書き出した後の秀麿もので、話の焦点があっていない印象を覚える。
この頃の鴎外にとって、洋行帰りの気楽な秀麿はすでに動かすことの難しいキャラクターになっていたんじゃないかなあなんて。

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