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鴎外「木村もの」

三作品ある。それぞれ紹介していく。

あそび

【木村もの概要】
木村ものはどれもエピソードらしいエピソードがない。名前の「木村」は「森」から連想しただろうか。
森鴎外本人を連想させる一種の私小説ものだが、私小説につきまとう生活の苦労などはない。気楽な短編が集まっている。


「あそび」はタイトルの通りの話で、役人と作家の二足のわらじを履く木村は何でも遊びの気持ちでやる。そのせいで、周囲の人間から嫌われる。
それだけといえばそれだけの短編だが、読んでいてくすくす笑ってしまう下りがたくさんある。たとえば、

木村は文学者である。 役所では人の手間取のような、精神のないような、附(つ)けたりのような為事(しごと)をしていて、もう頭が禿(はげ)掛かっても、まだ一向幅が利かないのだが、文学者としては多少人に知られている。ろくな物も書いていないのに、人に知られている。啻(ただ)に知られているばかりではない。一旦(いったん)人に知られてから、役の方が地方勤めになったり何かして、死んだもののようにせられて、頭が禿げ掛かった後に東京へ戻されて、文学者として復活している。手数の掛かった履歴である。

食堂

やっぱり筋のない話。
一見すると、単に木村が食堂で、他の役人を相手に「無政府主義者」の歴史について講釈を垂れている退屈な短編に見える。

ただ、当時作家は「秩序壊乱者」として非難されていた(「沈黙の塔」に詳しい)

ことを思うと、この「ポーカーフェイス」(解説より)な木村の姿の背後には大逆事件(追記:明治政府という国家暴力による思想弾圧だった、社会主義者の幸徳秋水や浄土真宗の僧侶ら、当時の優れた知識人の多くが明治天皇暗殺を目論んだという冤罪のもとに―この判決は未だに撤回されていないはず―死刑にされた。かつ、当時の元老山縣有朋は一度死刑判決を出した何人かについてそれを撤回した。狙いとしては死刑を宣告した後の撤回で彼らの精神に明治政府への恭順を植え付けようとし、また同時に国民からの非難を弱めようとしたという。なお「大逆事件」とは権力側の名称でありせめて「幸徳秋水事件」など中立的な名称と並立表記にすべきではないか)に揺れる日本の姿がある。
この短編でも、木村は水面下の何かと闘っているように見える。そう読むとまた面白い。

田楽豆腐

これも話らしい話はない。なのに楽しい。
以下は木村のセリフ。

「今かい。蛙を呑んでゐる最中だ。」

この気取りこそ木村/鴎外が嫌われる原因で、「あそび」で、筆者が鴎外の中期短編を愛読する理由である。

それぞれ読んでくれると嬉しい。

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