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「ほたるいかに触る」/蜂飼耳

蜂飼耳氏のことを、筆者はよく知らない。
いくつかの場所でちらほら名前を見かけて、読むのだが、なかなかピンとこない。

これは筆者が悪い。筆者は谷川俊太郎氏の詩を除くと、現代詩というものがどうにもピンと来ない。たぶん、体内の「詩センサー」みたいなものが、イカれているのだと思う。夜食を食いすぎたせいだろう。

ただ、あるアンソロジーのなかでとてもいい掌編を読ませてもらったから、ここに引き写しておきたい。

ほたるいかに触る 蜂飼耳

「叔父が死んだ。 
ほたるいかに触った。
その二つは、同時に起きたことではないが、近い時期の出来事だった。なぜなら、叔父はほたるいかの町のそばに、住んでいたからだ。ほたるいかがその町の沖に現れるのは、毎年、三月から五月あたりに限られている。浜へ打ち上げられることもあって、地元ではその現象を「ほたるいかの身投げ」と呼ぶ。
ほたるいかに触ったのは、浜辺ではなく、海の上でもなくて、展示場のなかでだった。無断でふれたのではない。ふれても構わないコーナーが設けられていて、それならば、と水に手を入れた。
金魚をゆるく握る感触に似ている。ほたるいかは、五センチから七センチくらいの大きさ。手のなかで、どく、どく、どく。脈打つ。どきりとして、緩める。墨を吐く。ひゅるりと逃げる。別の個体を、手のなかに閉じこめる。走った後の鼓動のような、早い脈が伝わる。ほたるいかが、とてつもない危機を感じていることがわかる。ひどいことをしていると、わかる。ふれて構わないコーナーに囚われた個体はみんな、こんなふうに繰り返し触られて、触られて、やがて疲れて、死んでしまうのだろう。
顔を上げ、注意書きに気づいて、はっとする。「食べないでください」。そう書いてあった。すると、食べた人が過去にいたということだろうか。いたのかもしれない。いきのいいほたるいか。身投げのものを、浜で拾って持ち帰り、刺し身として食すことも可能なのだから。ここで、食べてみようと思い立つ人がいるとしても、おかしくはない。とはいえ、醬油もなにもつけずに、食べる気になるだろうか。いかたちは、透き通る水のなかで、からだを横にして泳ぐ。
あまり動かない個体もいて、指先で波を起こしてみると、すでに死んでいる。もしかすると、動かないものを見て、食べてみようと思う人もいるかも知れない。動くのを捕まえて食べるのは気が引けても、動かなくなっているのなら、浜の身投げと変わりはしない。そんなふうに考える人が、いないとはいえない。
いかの仲間は、眼がいいという。レンズなどが精巧に出来ていて、よく見えるらしい。十センチに満たないほたるいかたちの眼は、いきいきと黒い。見られているな、と確信させる目だ。まばたきはしない。こんなものを、捕まえて食べるのだ。闇のなかで脅かされれば青い光を流す、このようなものたちを。
ふれて構わないコーナーのほたるいかたちは、囚われの身であることを把握しているのだろうか。知らない生きものの手に追われたり、握られたり、逃げたりしながら、もうどこへも行かれない。
「食べないでください」。言葉は告げる。眺めていてもとくに食欲は湧かない。食べたりはしない。冷たい水に両手を浸したまま、心だけ後退する。詩に似た影が足元に溜まる。
昼間の展示場を訪れる人は少ない。しばらく、三角形にもじゃもじゃと脚を生やしたほたるいかを見ていた。おもてへ出ると、海はもう目の前。空は曇り、波は静かだった。船も見えず、鳥もいない。この水の下に、ほたるいかの群れが。あらゆるものが、黙って、消えていく。」

素性のわからない語り手の語りは普遍性を帯びている。暗闇とほたるいかの青い光。
深い奥行きがあり、作品のなかで行きつ戻りつ、何度読んでも擦り切れない優れた短編だった。読めて幸福である。

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