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「あの日」を忘れてはいけない。3.11、ボクの話。

東北大震災から10年が経つ。故人やに対する一番のリスペクトは忘れないことだ。ボクは、あの日あの出来事を改めて振り返って綴ろうと思う。2011.3.11、東日本大震災から10年の区切りとして。

あの時、ボクは17歳だった。高校2年生の終わりのあの日、男友達2人とボーリングに行こうとしていた。ラウンドワンが満員で、仕方なく他をあたることに。「まぁ、少し寂れたハマボールでやんべ。」と向かっていた。

ハマボール手前間近の橋で、たわいもない話をして歩いていたと思う。天然キャラな友人が「あーヤバいわ。目眩してきた。」なんだそれと笑うボク。すぐに「え、マジで?オレもだわ。」と、言うもう1人の友人。カタカタっと鳴り始める目の前の信号。数秒も経たずに気づいた、これは地震だと。揺れは、地底からの重低音と共に大きくなる。誰もまともに立てずに、3人で掴み合っていた。ボクは「橋が崩れるかもっ」と、橋から道路へ移動した。次は「電線がぶっ壊れて、感電するかもっ」と、とにかく危険を察知しようと必死だったのを覚えている。そこから、揺れがおさまるまでの記憶はあまりない。ただ、そこにあった非日常になすすべもなく、受け入れるしかなかった。

振動がおさまる。未だ、3人で近寄り唖然としていた。誰のか分からない、心臓の音がバクバクと鳴っていたが、3人の心音だっただろう。そこから、近くにいた中年男性と会話した。「この揺れは、都心直下型ではない。この後は、パニックが予想される。」。今思うと、彼は僕らに言いつつ、自分自身に言い聞かせていた。

何かの映画を思い出して、強奪や飲食の枯渇が始まるかもしれないと、近くの自販機で急いで飲み物を購入した。呆気に取られていると、目と鼻の先のハマボールから、頭を布で抑えた人たちが飛び出してきた。ただ、自分のことで精一杯だったボクは、視界に映った程度しか記憶にない。その後のニュースで知った。天井が崩壊して、怪我人が出たそうだ。もし、はじめからハマボールに直行していたら、死はすぐ隣にいた。それに気づけてすらいなかったのが、怖かった。

高校生とは呑気なもので、数分経つと怯えたあの非日常を、アトラクションのように話し出す。「目眩するとかなんだよって思ったわ!」「橋が崩れるかもって時、死ぬかと思った。」笑いながら、あの瞬間についておしゃべりしていた。ともかく、帰宅しよう。横浜駅に近づくと混乱が待ち構えていた。

非常事態に対して、運行停止のアナウンスの声。おびただしい数の人、そこら中で聞こえる会話の声。今思い出そうとしても、あまり記憶が残っていない。ボクらは日常的な会話で、あの恐怖を跳ね除けようとしていたのかもしれない。

少し、駅構内を歩き回ったあとに、友人と別れを告げた。スマホは普及していないし、ガラケーの電波も反応なし。たしか、少ししたら当時活発だったmixiはアクセスできた気がする。

大体歩いて2時間、自宅まで歩いて帰った。唯一心強かったのは、iPod。いつも聴いていた音楽を相棒に、徒歩でみなとみらいを通っていく。やけに、川の水位が高かったことと、人の少なさだけは覚えている。

日が暮れはじめて、驚いた。街に光がない。輝かしいみなとみらい周辺も、車も少なく、明かりがない。いつもと違う景観に怯えた。幸い、帰路の途中ドンキホーテで懐中電灯と飲食物を買えたのが救いだ。不思議なもんで、片手に電灯を持つだけで冒険のような気分になる。ボクは、当時ハマっていたSEEDAを耳元に、割と元気良く家に着いた(五感とは大したもので、この文を綴りながら何を聞いていたか思い出してきた。)。

両親がすぐに駆け寄る。無事だった旨を伝えて、揺れた当時の話をする。父が、東北の方が震源らしく津波が大変らしいと話していたのを、「はいはい」と聞き流していた。その後、停電で冷蔵庫のものが腐るかもと、アウトドア用品を引っ張りだして、しゃぶしゃぶを堪能した。いつもの自宅で、キャンプ用品のライトがテーブルを灯す。ドキドキしながら夕食を食べた。ボク以外が皆んな寝静まったころ、電気が復旧した。そこで震災被害の全貌を知った。

ニュースで見た映像は、まるで映画のワンシーンのようだった。

ボクは津波について無知だったことを痛感した。大きな生物のように唸る黒い津波に人が飲まれてしまう動画。未だに、建物の屋上から助けを求めている人。それらについて、緊迫な表情で現状を説明しているアナウンサー。行方不明、死亡の人数さえ分からない現状。全てがウソのように思えた。ボクは、さっきまでは非日常をドキドキワクワクと満喫していたのに。そこから、しばらくテレビに釘付けに。ボクの心はそこにあらず、頭も回らずに自然の恐ろしさをただ感じるだけだった。

その後、近くの工場地帯が壊滅して、浴びてはいけない成分が含んだ雨が降るという怪しいけど、否定できないメールが回ってきた。そんなことはないだろうと思っていた。しかし、報道され始める原発基地の崩壊。メディアも真偽が確かめられずに、政府の酷い対応だけが鮮明に残っている。そこで、知ったのだ、政府も人間の集合体。保身に走るし、疑惑を真実と信じてしまう人がいるんだと。

今思うと、知り合いや知人に東北にいた人はいなかった。だから、どこかで人ごとだったのだ。ニュースの映像にも驚いたが、身近には感じていなかった。そして、出回る横浜駅についての報道。地面が割れていたり、ハマボールが崩壊していたり、重傷者が出ていたことも。ここで繋がった。災害は誰にでもどこにでも降り注がれるし、死は平等におとずれると。

これについては書くか迷ったのだが、アメリカ留学中に酷く腹が立ったことがある。あの日から2年後、ボクは渡米してカリフォルニアにホームステイしていた。その時、地震についてホストマザーと会話した。アメリカの中でも、カリフォルニアは割と地震が起こる方だ。けれど、そこまで大きな地震はない。だからなのだろう、彼女は悪気もなく「地震は突然やってくるし、サプライズでアトラクションが始まる感じでエキサイトだよね。」と。ボクは言葉にできなかった。腹にドス黒い感情が芽生えたが、言葉にもできず聞き流した。その夜に考えた、なぜ人でなしなことを平然と言うのかと。けど、その感覚はあの日を体験したから言える。もし、日本が地震のない国だったら、大地震を経験していなかったら、同じ言葉を吐いていたかもしれないと。

今、当時を思い出しながらこの文章を書いた。連鎖してあらゆることを思い出してきた。あの日から、簡易だが防災バックを準備するようになった。不自然な縦揺れや、緊急地震速報のアラームが鳴ると胸がキュッと痛くなるようになった。それも、ここ数年でなくなってきた。今では防災バックもどこにあるか把握していない。嫌な記憶や恐怖は、似たような経験を積むなかで、たぶん人間の脳から薄くさせるようにできている。それは慣れという野生の本能だ、仕方ない。

けど、それで終わらしてはいけない。

もう一度述べるが、忘れないこと、風化させないことこそ故人への最大のリスペクトだ。ボクは無傷で生き残った、忘れないし忘れそうなら何度でも思い出す。

この文を書くことに対して、少々迷いはあった。あの日について、気持ちをうまく伝えられる自信もなかった。けど、ボクは物書きという職業を選んだ。だから、書いた。3.11を死ぬまで風化させない、もし子供ができたなら語り継ぐ。それが、生き残ったボクの責任だと思う。



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