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勉強と学びは何が違うのか?


このノートを見てる人の中で、現在中高生だという人がどのくらいいるかは分からないが、もしそうだとすると、「勉強」に対する考え方は、様々あるだろう。

勉強したくない、勉強が好きだ、勉強しなさい、勉強しないといい学校に行けないよ、、、幼い子供(特に幼くなくても学生の身分であるうちは)にとって勉強は切っても切り離せない、そのように付きまとう問題である。私は勉強とは、テストや試験など決められたルールの中でいかに効率よく点数を取るかというゲームのようなものであると考えている。つまり一定の期間内にどれだけの知識を詰めこみ、その蓄えた知識をいかに正確にミスなく使うことができるかというものである。

いまの日本は学歴社会が終焉を迎えつつあると言われるが、それでも「勉強ができる」とされる人が社会的に成功しやすいことは事実である。偏差値が高い高校に行き、偏差値が高く知名度がある大学に進学し、その大学においてそれなりに勉強し卒業する。良い(とされる)大学に行けば、社会的に認知度が高い、もしくは労働環境や賃金などの報酬面が良い会社に就職できる可能性は高くなる。無論勉強の出来が直接的に仕事の出来には繋がるわけではないが、学歴が高い人間――偏差値が高い学校を卒業した――が優遇されることが多いことも事実である。勉強能力が高くなればなるほど、いわゆるホワイトカラーと呼ばれる頭脳労働の割合が高くなっていく。そうした職業の殆どで、一定以上の知識なり学力が求められる。利益率が高い、多くの富を生産できる産業は、ホワイトカラーであることが多い。社会構造がそのようになっており、野心やその人なり人生の明確な目的を持っていない限り、より多くの給与がもらえる仕事に就きたいと思うのは至極当然であるから、そうした職業が人気であることは容易に理解できる。そのような状況において、なにが起こるかを考えてみると、皆が社会の知能レベルを一定以上にすることを目的としてきた教育の成果である偏差値が、生活をしていく中での一手段としての機能しか果たさなくなる。つまりテストでいい点を取り、良い成績で卒業する。テストで問われる知識は、その場限りの価値しか与えられない。テストが終われば必要ないのだから。
資本主義社会において生活していく上で、お金を稼ぐことは不可欠であり、お金を稼ぐためには労働をしなくてはならない、なんらかの職を得るためには、――一部の専門的な職を除いてではあるが――勉強をしなくてはならない。

知識の量と、それを使う能力を測り、人間を順序づける。相対的な勉強の出来によって、進学先を選ぶ。偏差値の高い学校に行けば良いことがある。一般常識として共有されているこの事柄自体には間違いがないだろう。だが本当にそれだけなのだろうか。

私は考えることが好きである。好きであるから考えているというよりかは、色々考えてしまう性分であり、今ではその性格を受け入れることができており、その部分が好きであるという意味である。急になんの話をするのかという話であるが、私は物事をしっかりと考えている人間が好きである。

勉強ができる人間が必ずしも物事をしっかり考えているのかという疑問がある。私は勉強ができる人間というのは、ある意味で物事を効率的にこなすことができる、要領の良い人間であると考えている。同じ時間勉強しても、平均以上の知識を詰め込むことができる人間が偏差値の高い人間であるというわけだ。要領の良さだけで測れない側面もある。どれだけ一つに集中できるのかという集中力も重要な要素になりえる。だが、才能や生まれ持った能力で決まる部分が割合高いことは間違いない。テストの内容がある程度複雑になってきたら、投入する時間だけでは頭打ちになってしまうからである。どうやっても埋められない差は存在するからだ。

私は勉強が好きである。もう少し正確にいうと、自らの知識欲を満たすために学び、熟考し、他人と議論することが好きであり、それら一連の学びに関する活動により多くの時間を割きたいと考えている。私は商学部に所属しているのだが、哲学や社会学、心理学に興味があるので、特に大学の科目と関係なく、それらに関連する書籍を読む。傍からみれば勤勉で真面目に映るだろうが、私は私が知りたいと思ったことを深めているだけなので、外部から強制されているわけではない。決してガリ勉であるとか、テストでよい点を取りたいという理由だけではない。もちろん私も学生なので単位は取らなければならないし、テストでいい点を取れるに越したことはない。だが先にも述べたように、一般的には勉強は社会に出るまでの訓練であり、より高い社会的地位を獲得するための手段でしかない。

そのような勉強への姿勢に疑問を感じるのだ。ここで勉強と学びがどう違うのかという話になってくる。ここまで長々と書いてきたが、勉強と学びの違いは、どれだけ能動的であるかにあるといえるのではないか。勉強は社会で成功するための手段であるので、どれだけ能動的にテスト勉強をしたとして、勉強は本来的には受動的な活動である。ガリ勉や真面目さは、社会で(特にガリ勉は学校において)評価されることが多いが、能動的に勉強をしているようにみえて、自ら進んで受動的になっているにすぎない。それに対して学びとは、自ら進んで本を読み、考えを深めるような、極めて能動的な活動である。少し大袈裟な言い方をすれば、学びとは学ぶことがそれ自体が目的である、ともいえる。社会の多くの場面において、勉強と学びの区別が曖昧であり、混同されている。どちらにおいても新たな情報を知り、一定の思考を必要するが、根本的に方向性が違う活動であると、私は述べたいのである。


ここまで勉強と学びの違いはなんであるのか、という主題について、論じてきた。noteの記事であるということ、厳密なレポートの形式をとっていないという理由(言い訳)から、論理的飛躍や寄り道、大した結論が出ていないなど、この記事の出来に関して突っ込みどころは尽きないであろうが、どうかご許し願いたい。また断っておきたいのだが、決して勉強ができる人間を批判しているわけではない。偏差値の高い人間は、知能という観点では高い能力を有しているし、良い大学を卒業できる人は、それだけ努力している人が多いからだ。なんの自慢でもないが、幼い頃から平均以上に勉強ができる子ではあり、その容姿からガリ勉や真面目などと言われることが多かった。その頃から、そのように言われることに少なからず反感を覚えていた。大学生になり、自らが望む活動に、比較的時間を割けるようになったため、自分がしているのは勉強なのか?と疑問に思ったことが、この記事を執筆するきっかけである。

大したことが書いていないにも関わらず長々と書いてしまったが、もし最後まで読んでくださる方がいれば幸いである。ここまで読んでくださった方には御礼を申し上げたい。

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