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『フェイブルマンズ』/映画の情熱とは無縁(映画感想文)

スピルバーグ監督の『フェイブルマンズ』(23)を観た。とんでもない傑作

【1】
冒頭、人生初の映画鑑賞から自宅のある住宅地にもどってくる。
どの家にもクリスマスの電飾が楽しそうに飾り付けられている。それを見て技術屋の父親が「飾り付けのせいでどの家か見分けがつかないな」というが、スピルバーグをモデルにしていると思しき主人公サミーはこう答える。
「うちだけ飾り付けがないからすぐに判るよ」
そう、その家族フェイブルマン一家はユダヤ教徒でクリスマスの飾り付けとは無縁だったのだ。

この場面でスピルバーグの本気度が判る。
今回、ただ事ではないほどの集中力で監督は物語を構成している。自伝として事実の再現に、だろうか。いや観終わってしまったいま、そうではなかったことは判っている。
事実に対するリミックス作業とでもいえばいいのか。それは過去に起こった自身の歴史から任意のパーツを抽出し、ある方向へ物語を再構成する作業だ。それが判ると劇中で母親が口にする「すべての出来事には意味がある」という言葉もまた深みを増す。
「あなたの人生においてもいいこと、悪いことがあるだろうが、それも編集次第で『いい人生』にも『悪い人生』にも変わるだろう。要は自身の切り取り方や見方次第なのだ」というあの言葉。

【2】
『フェイブルマンズ』は「すばらしい監督が誕生するまでを描いた映画のための映画」ではない。
「映画」という比喩を使って「あなたの人生も映画のようだ」と伝えてくる。「人生」についての映画だ。
そして同時に「母」の映画でもある。

ユダヤ教ゆえの習慣の違いを冒頭に、…と書いたが、このシーン以前にもすでにモチーフへの周到な目配りは始まっている。
最初のシーンは主人公サミーの人生初の映画鑑賞場面だ。観る前からサミーは「映画」というものを怖がっている(「映画とは怖いものだ」というテーマがこの時点からして既に披露されている)。それに対して優れた技術屋の父親は「いいか。それは分割された24枚の写真に過ぎない。一秒間に人間の目はそれをとらえきることができないから動いて見えるのだ。映画は科学だ」という。そして母親は「映画は夢よ」というのだ。

スピルバーグはこの父と母から生まれた。映画の主人公と監督とを同一視し過ぎる危険もまた承知しているが、しかし描かれる挿話はほぼ実話だ。
離婚してサルを買う話も、得体の知れないボリスおじさんがやってくる話も。高校生の頃にイジメっ子をドキュメンタリー映画の主人公にして怯えさせた話まで本当なのだ(泣いたかどうかは不明だが多分この映画で明かされているのがほぼ事実だろう)。
事実と異なるのは、高校時代のイジメがこの程度ではなかったこと。描かれていない事実は他にもあって、たとえばスピルバーグがクルーズと同じデイスレクシアであったことや、実は離婚する父と母とがのちに復縁していることなど。

映画を観ながら僕は、思春期の頃までのサミーは母親っ子だと思っていた。父親に対してはなんとなく技術莫迦で芸術的情熱の判らない、人の気持ちの判らない気味の悪い俗人だと。しかし芸術家の母親は父を尊敬している。父が並外れた天才であることも理解している。だからこそ惹かれたのだということがだんだんと判ってくる。父も同様、自分には理解できない芸術家としてのセンスを持つ母親を愛する、という以上に尊敬している。おたがい、理解できる/できないの領分については明確で、だからこそ離れて暮らすことも選べたのだ。当然子どもたち(娘たち)にはそれが理解できない。

この芸術家の情熱的な血と科学に対する絶対的な信奉という矛盾した二つの要素を兼ね備えてしまったのが息子だ。そして相反するこの父と母には共通したあるひとつの気性がある。それは「好きなものをあきらめることがけっしてない」という信念だ。息子にはそれが備わっている。

その息子が手に入れた武器が「映画」だった。

【3】
『フェイブルマンズ』は「映画」の素晴らしさを謳った映画ではない。『BABYLON』や『エンパイア・オブ・ライト』とは真逆のものとして「映画」を扱っている。「映画」とは見様によっては是とも非とも受け取れるものであり、それは作り手の演出次第で是とも非とも取れるように作り変えられるものだ。

家族キャンプの楽しい映画は、視点を変えるとまったく別の物になってしまった。高校生のバカンスを撮った映画は作為によって人を(暴力以上の脅威をもって)操る何かに変わってしまった。「お前はそれだけの恐ろしいことを成し遂げる人間になる」という警告めいた予言はここより前に、突然現れたボリスおじさんによって為されている。自動車に乗って去っていくおじさんを、母は「悪い人じゃなかったわね」というがそれもその筈、彼女には同じ血が流れているのだから恐れる必要がない(母の母が恐れていたのはその芸術家としての情熱が自分であれ他人であれ人生を破綻させることがあると知っていたからだ)。しかしこの帰り際にサミーがみせる表情はどうか。「自分は何かとんでもなく恐ろしいものになってしまう! その血が僕には流れている」と慄く顔を彼はしている。

映画というのはそれほど恐ろしいものだ。しかし、それをコントロールするのもまた人だ。サミーはその力を思う存分駆使して報復を遂げるが、この時点ではまだそれほどこの力(の恐ろしさ)を知ってはいない。その力を、サミーの持つ力を知らしめてくれるのは他でもないローガンである。

しかし『フェイブルマンズ』とは、なんと魅力の詰まった映画なのだろう。このくだりひとつ取っても青春映画的要素、恋愛映画的要素を持ち、前後では家族の映画でもありまたいつものスピルバーグ的不安を掻き立てるサスペンスの要素もある。野心を持った少年が青年になるある時期を描いた成長譚でももちろん、ある。

「映画」の恐ろしさ、メディアの持つ力の怖さ、を伝えているという観方を多くの批評家がしているようだが、僕はそこにスピルバーグという人の恐るべきイノセンスを加えてやはり「ほらね。人生だってしょせん映画みたいなものさ」というパラドクスも加えたい。
フォード監督から示唆を受ける場面も事実なのだが、ここで青年が受け取るのは「映画というのはどうにでもなるもの」であり、「それは見せ方次第だ」なのだ。ひとつの事実を悲劇として描くこともできれば喜劇にすることもできる。だとすれば、人生において起こる出来事だってあたかも映画のように、悲劇として受け取ることもできれば喜劇として感じることだってできるのではないか。
ひとついえるとするなら、(これはフォード監督の言葉の僕流の解釈に過ぎないが)「悲劇も喜劇もない人生などクソほどつまらないだろう」ということだ(日本のことわざにも、ほら、「沈香も焚かず屁もひらず」ってあるじゃないですか)。


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