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『マミー』/違った方向に組み立てればよかったのに(映画感想文)

和歌山毒物カレー事件は98年7月に起こった毒物混入・無差別殺傷事件で、4人が亡くなっている。
10月に付近住民であった主婦が別の保険金殺人未遂および保険金詐欺の容疑で逮捕。このとき夫も別の詐欺事件と同未遂容疑で逮捕、起訴される。のち捜査の過程でさらに別の殺人未遂、詐欺容疑が出て再逮捕。
7月の夏祭り時に人々を死に追いやった毒物は亜ヒ酸だったが、これらの保険金詐欺に用いられたものと事件に用いられたものとが同種と判定され、主婦は12月に殺人・殺人未遂容疑でまた逮捕、起訴され、02年に死刑がいい渡された。

当時、テレビのワイドショー番組の取材は異常だった。
プライバシーを無視し、家を取り囲むと外壁をよじ登って内側へカメラをむけ一家の日常を侵した。事件と関係があるのか定かでない付近住民とのトラブルを掘り出すと、偏向的に報道した。
虚像か否かの判断はメディアのこちら側にいるものにはつけようがなく、多くの人がそこに「よくないことをしているらしい、些か不穏当な夫婦」の姿を見せられた。メディアの恐ろしい刷り込みだ。確かに彼らは、故意に知人にヒ素を飲ませ保険金詐欺をはたらいていた。この点については夫も認めている。だが、被害者とされる人物自身が共謀していた可能性もある

二村真弘監督のドキュメンタリー映画『マミー』(24)は、この和歌山毒物カレー事件を扱っている。
タイトルのマミーとは逮捕された主婦のこと。当時、中学3年生の長女をはじめ4人の子どもが彼女にはいた。その子どもたちのなかのひとり、現在30代半ばの長男が、映画『マミー』ではカメラの前に登場する。彼は数年前からメディアの取材にも応じている。
そうすることで事件を再考してもらうきっかけになれば、というのが彼の想いだが、冤罪の可能性を訴えながらも、「被害者のあることなので、自分の立場で『母親を信じている』とはいえない。だが『信じたい』と思っている」と彼はいう。

事件には、不可解、というか解明されないままになっていることが多々ある。
事件に使われた亜ヒ酸と主婦の家にあったものとが同種だと判定された、と先に書いたがそれはあくまでおおまかな種別として同じに過ぎない、ということはのちに判る。指紋のように確実に主婦の家にあったものと唯一同一だと断定できているわけではない。亜ヒ酸はシロアリ駆除の殺虫剤などにひろく用いられている。同地域内に、他に所持していた家庭があることも判っている。だが、それらと実際に犯行に使用されたものとが同一であるか否かの確認はなぜか行われていない
また主婦がカレーに毒物を混入させたと思われる犯行機会についても、「主婦がひとりでいるのを見た。カレー鍋を開けていた」という近所の住民の証言が採用されているが、見た位置や、目撃したのが主婦で間違いなかったか、といった点に疑義があり、さらに現場にはカレーの入った鍋が二つあったのだが、「開けているのを見た」と証言されているのは毒物が入れられたのと違う方の鍋であったことも判っている
そして何より、動機も不明だ。
保険金詐欺を目論み成功させるほどに悪知恵のはたらく、ある意味利口な人物が、なぜ逮捕される可能性を考慮せず大量殺傷を行ったのか?
(映画では触れていないが、事件の初動捜査に携わった県警科捜研の主任研究員は別事件で証拠捏造を図り、のちに書類送検されている)
これらの解決しなければならない点を多く残しながらも、死刑判決は下され、再審請求は退けられ続けている。

こうした点を検証しつつ映画は冤罪の可能性を指摘していく。見応えはある。
以前『正義の行方』(24)を観たときにも書いたが、僕は父親が警官だったこともあり、人より警察という仕事に対する敬意と尊重の意思は強い。警官は立派な人であり市民生活には不可欠の職業だ。世間では結構な地位に就いている知人が(僕の父親がそうであったことを知らず)悪し様に僕の目の前で「ポリ」などということもあるが(そうしてそのときには僕は腹のなかで「こいつもアホやな。事件に巻き込まれたら警察を頼るくせに」と思うのだが)。
だがときに、こうした論理の穴が埋まらないまま、法に基づく正義とは到底思えない逮捕や、そして死刑宣告が起こるのはなぜなのだろう。人は万能ではないので、すべて完璧な論理で真実を追及・再現できるとは思っていない。だが警察とは唯一、それに対して肉薄し、明らかにする権限と責任を持つ機構の筈だ。今件のような検証の不十分さを目の当たりにすると、やはりあまりにも杜撰ではないかと思う。
誤りを認められない、もしくは誤っている可能性が出てきたときに再度調査を行わない点については、警察という機構が唯一絶対の権限を有する捜査機関であるがゆえに、あらためなければならないのではないかと思う。

だが実はこういった警察やメディアに対する不信やそれらの持つ力に対する恐怖とは別に、『マミー』を観ながら思っていたことがある。
またしても(『ソウルの春』同様、…最近の僕はおかしいのだろうか)作品の本質とはズレたところの難癖のようなものなのだが、…。
なぜ、この映画は『マミー』というタイトルが付けられたのだろう? 逮捕された主婦の「母親」としての側面を映画の主旋律として描こうとしたのだろうか。
劇薬を用いて人を死に至らしめたといわれながらも、その実、子どもたちにとっては優しい母親としての一面があることを、訴えようとしたのだろうか。
だが、そうであるならこの作品(のねらいとタイトル)は失敗していると思う。
なぜなら「確かに冤罪かも」「有罪とするにはあまりにも証拠がなく、見込みでしかない」「なのになぜ判決が下されたのだろう」と映画を観て強く考えることはあれ、長男の声を聞いても、夫の話を聞かされても、主婦の「母親」としての面を思い浮かべることはできなかったのだから。
時折挿入される主婦から息子へ宛てたと思しき手紙の文面から、子どもたちに対する愛情があったことが察せられはしても、胸に迫ってくるほど強い母性や家族愛といったものは感じることはなかった。

もしかすると企画の発端時点においては、もっと「息子」の立場から「母親」としての姿を描き出そうというねらいがあったのだろうか。
と思うのも実はこの作品、8月3日の公開直前(7月11日)に配給会社から異例の声明がメディア向けに発信されるということがあった。その内容は、「(主婦の)親族から公開に関連する誹謗中傷や嫌がらせを予想以上に受け、日常生活が脅かされ不安が日ごとに増している」「協議のうえ、善後策として映像に一部加工を施して上映する。公開中止や延期はしない」だった。
本編を観たかぎりでは、加工はインタビューに答える長男の顔にぼかしを入れたことではないかと思う。

事件後、加害者家族として4人の子どもたちはバラバラになった。父親も逮捕されたので児童養護施設に預けられ、以降壮絶ないじめにも遭っている。
事件から距離を置き、両親の姓を捨て、新たな人生を始めようとしたものも子どもたちのなかにはいる。
長男は「母親との縁を切ることは母親が犯人だったと認めることになる」という考えで、母親との面会をいまも続けている。いまもこうした事件の取材に長男が応じるのは、他の兄弟にメディアの矛先がむかうのを逸らせたいとの気持ちからだ。だが兄弟のなかには、逆に長男がそうすることで事件がいつまでも世間から忘れ去られずにいる、やめてほしい、という考えの兄弟もいるそうだ。
映画では触れないが、当然長男自身も事件に因るバッシングを受けている。
職場で、加害者主婦の息子であると判ると「衛生上問題があるから辞めてほしい」といわれた。一時は結婚を誓った相手もいたが、その本人に事情を告げるか否かにまず悩んだ。しかし告げた。相手は、それでもかまわない、結婚する、といってくれたが、「わたしの両親には隠してほしい」と彼に告げた。彼女の両親は大変いい人たちであった。その人たちに事情を隠したまま、うそをついたまま自分は結婚できるのか、とうしろめたさが生じ、葛藤の末に告げると破談になった。彼女からは「なぜいったの」となじられた、…。
それでも彼がこの映画の企画を引き受けたのは、少しでも知ってもらうことで世間の母親への印象が変わること、また再審へむけて前進することを望んだからだ。だがその彼が、公開前に投げつけられたSNSなどの中傷に対し、「公開を承諾したのは僕自身なので本当に申し訳ないですが(中略)公開中止の申し入れをさせていただきます。損害賠償等があれば借金をしてでもお支払い致します。すみませんでした」と自身のXに書くほどの誹謗や中傷が今回も起こっている。

ここで思うのは(『正義の行方』のとき同様、警察という公権力の恐ろしさも感じるが)、くわえてテレビをはじめとするメディアの持つ理不尽な力、影響力の恐ろしさだ。そして、人とはなんと自分の知りもしないことを、噂や切り取られた一部だけの情報で偏見を持ってしまうものか、という自分も含めての不完全さ、認識の限界に他ならない。
人は勝手な判断をあたかも事実のように思い込み、価値判断し、直接関係のないことは平然と看過し、決めつけても恥と感じない。
僕自身も長くあの当時の映像を、テレビが映し出す主婦の言動やふるまいを観て、「こいつ悪いやっちゃな」と思い込んでいたのだから。
劇中でもっとも印象的なのは、冤罪を訴え街中で活動する市民団体の人びとに対し「有罪に決まってるやろ」「いまさら裁判したって、この人が死刑でええやんか」といった声を何の根拠もなくかける人がいることだった。
使われた亜ヒ酸がこの一家の持っていたものだとは限らない、目撃者の証言も信憑性が薄い、といっても「警察がでも犯人といってるんやろ」という思考放棄の思い込みが都合よく、過ぎた他人事として、証拠もなく有罪を決定してしまっている

映画の制作者の意図のうちに、「子どもを持つ母親(マミー)がこんな凶行を起こすだろうか」という腑に落ちなさがあったのだとすれば、このタイトルもねらいも判る。しかし、映画はそういった方向にむけて作られてはいない。
「有罪か無罪かははっきりしない。しかし子どもたちにとっては、(もし主婦が犯人であったとしても)たったひとりの、かけがえのない母親であることに変わりない」というコンセプトで作られていたとしても、このタイトルには納得がいく。しかし、そうではない。
知られた話だと思うが、4人の子どものなかには救われなかった運命を辿ったものもいて、それを考えると「母親と子どもたち」という構造をこの事件に当てはめるのは難しかったのではないか、と思う。
もう少し、興味本位で話題作りの方向にではなく、別の組み立て方があったのではないか。

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