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『クリスティーン』/ホラーに非ず、甘酸っぱい青春映画の変種(映画感想文)

『クリスティーン』は原作スティーヴン・キング、監督ジョン・カーペンターで製作された83年の作品。イジメられっこで気弱な高校生アーニーが邪悪な意思を持つ自動車(58年型のプリマス・フューリー)に魅入られる。
原作者から監督から筋書きから、それだけならなにもかもがドのつく直球ホラーだが、しかし観終わってからの感想はまったく違う。設定らしきものを簡単に書いたけれど、正直なところ「?」がつく。本当にそんな話だったか? アーニーは本当に”魅入られた”のだろうか。彼にとってクリスティーンとの出会いは必然であり、それは人では成しえない精神的ベターハーフとの出会い、運命だったのではないか。そんな気がするのだ。
そういう意味で『クリスティーン』に最も似ているのは落語の怪談噺として知られる牡丹灯篭である。あの物語も、新三郎が恋したお露が人ならぬものであったがゆえに起こる悲劇を描いている。いずれの物語でも当事者同士は代えがたい相手に惹かれ、その間を引き裂こうとするものに対して恐ろしい報復の手段で訴える。

『クリスティーン』はとてもロマンティックな映画だ。
そして、青春のあまくて苦い香りに満ちている。
キング自身は執筆当時、「自作で本格的なホラーといえるのは『呪われた町』、『シャイニング』、そして『クリスティーン』」と語ったそうだが、それは"混じり気のないホラー”という意味なのだという。
整合性のとれた説明は一切ない。ただ怖がらせるためだけに書かれた小説という意味か。
映画は、長尺な原作を2時間に収めるためにかなり改良され、プリマスが邪悪な意思を持つに至った経緯はカットされている。より純粋な得体の知れない絶対的な悪の存在として唐突にその自動車は現れる。
しかし、その自動車に魅了され中古で買うアーニーは、なんとわれわれに身近な等身大の人物として描かれていることか。そこらにいる以上に自身と重ね合わせやすいキャラクターに作られているがため、他人事とは思えぬ、自分の冴えない青春とその憧憬が超自然的な力の発露で顕現し出会うロマンスのように映るのだ。
自動車などのメカに憧れ詳しい知識と技術を持つアーニーだが、人付き合いは不器用。なんといっても彼の親たちが子離れを果たせず、アーニー自身も母親のいいなり。そのせいで学校では悪いやつらからイジメられるという悪循環。そんな彼の友人といえるのはデニスだけ。デニスは、現代的で典型的なティーンの高校生で、人付き合いもよく、女子の扱いにも長け、にもかかわらずオタク気質で童貞を絵に描いたようなアーニーにも親切な、いいヤツだ。
学校へも行き帰りはデニスの自動車でいっしょにむかい、帰ってくる。本当は自分の自動車を持ちたいアーニーだが、母親が許可しない。ところがある日、偶然ぼろぼろで半ば打ち捨てられたようなその中古車をアーニーが見つけてしまう。テニスは「もっとよく考えろ」と反対するがアーニーは聞く耳を持たない。どうせ母親に反対されて思いとどまるとデニスも考えるが、しかしそうはならなかった、…。

自動車を「悪い女」に置き換えても通用するほど、この物語の骨組みには既視感がある。しかし、クリスティーンは「悪い女」に非ず「悪い自動車」だ。不思議な意思を持ち、不思議な力で思い通りにならないものを危機へ陥れ、無残に命を奪っていく。恋人ができた途端に人格が変わり、ひとかわ剥けたかのような変貌を遂げる男子も女子も現実の世界に存在するが、アーニーもまた、愛車を手に入れた瞬間から大人びた風貌になり、ふるまいに自信の伴うちょっとコワい嫌なやつに変わっていく。嫌なやつ? いや、これこそが当たり前の生意気なティーンなのか。だとすればアーニーの殻を破り、幼少期を終わらせたクリスティーンは、ある意味、彼にとっては欠かせぬシンギュラリティポイントの象徴だったともいえる。もし彼女が自動車でなく人であれば、この恋は相思相愛だったのに、…。そう思うとなんと切ないことか。

もちろん、こういった見方をされることはキングにとっては予想外、カーペンターにとっても心外だったと思うのだが、結果として、それゆえ映画は青春映画として見事な強度をもって仕上がった。
自動車、この時代においてさえ古いロック、ドライブインシアターに不良たち。『スタンド・バイ・ミー』(86)とも通底する(あちらも映画と原作ではかなり異なる出来栄えに改良が施されているが)キング印のアメリカのティーンの青春がこの映画には詰まっている。B級映画の王様カーペンターにして、キワモノめいた味付けもなく、洗練された小品にして傑作。何度でも繰り返し観たくなり、そのたびに僕らはかつて憧れた青春像を僕らは思い出すことだろう。

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