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『フルメタル・ジャケット』/人らしさを剥奪されたものたち(しか出てこない)(映画感想文)

キューブリックの『フルメタル・ジャケット』、公開は87年。
ベトナム戦争を題材とした作品だが、前半では海兵隊訓練所での新兵が鬼教官にしごかれ一人前の兵士に、…戦場で臆さず人にむけ引鉄が弾ける殺戮マシーンへと育成される狂った過程が描かれる。後半は報道部員として前線へ送られた兵士が、容赦ない戦場の現実に直面する物語。

以前観たときは前半の方がインパクトが強かった。
鼓舞なのか人間性の剥奪なのか。そのどちらでもあるような、ただただ罵倒を新兵に対して続けるハートマン教官と、そのなかで特に「微笑みデブ」と呼ばれるローレンスの二人を主軸とする訓練所での物語が。
数年を経て観直してみると、いや、後半こそが多分この映画の凄みであると判る。
後半は、登場する人物は全員、前半で描かれた訓練所(に類するところ)で人間らしさを剥奪された者たちなのだ。
そんな彼らが死と隣り合わせの、他になにものも考慮する必要のない戦場で唯一残滓のように残る本質を露わにする。軍隊という規律と、殺戮という目的と、それ以外のすべてを削ぎ落された場所で人のなかにいったい何が残っているのか。
ベトナムに送り込まれた兵士たちに「誰を何のために殺すのか」といった疑念や戦争に対する個々の信念はない(階級的に偉いものであっても思想などないことが、主人公ジョーカーの付けているピースマークバッヂのエピソードによって描かれる)。
いったい、これは何なのか。彼らははたして人間なのか。

映画を撮る前のキューブリックは写真雑誌のカメラマンだった。
そのジャーナリスティックな視線が戦場を冷徹に照射する。
僕自身が最も好きなキューブリックの映画は『シャイニング』(85)であり『バリー・リンドン』(75)なのだが、この二作には人の匂いがまだある。『2001年宇宙の旅』やその他作品を含め、よくよく考えてみればこの『フルメタル・ジャケット』ほど、写真雑誌のカメラマンというキャリアを持つキューブリックに向いた素材は(初期のいくつかの作品群を除けば)ないだろう。ただ「出来事」だけがそこにあり、それをカメラで追う。気持ちは写真には写らないので、監督はそんなものを写そうと思案する必要はない。

前半の海兵隊訓練所では、いったい誰が主役なのかしばらく判然としない。しかしその間も物語は進行し、観ている僕らは一切の感情移入の対象を与えられないまま、その日々を覗き見ることになる。『2001年』でもそうだった。出来事が情報として提示され、しかもそこで何か大きなうねりのようなものが浮かび上がってくるでもなく、淡々とただ目の前で繰り広げられる出来事を僕らは観るだけだ。ナレーションのないドキュメンタリー番組を見ている気分に近いがそれだけに生々しい。下手な監督であれば観客はすぐに飽きるはずだが、キューブリックの映画は、人に対する手触りがこれほど欠落しているにも関わらず飽きることがない。なぜか。
突き付けられるようにして目の前で繰り広げられる出来事を、食い入るように見てしまう。キューブリックの手にかかると、この世界がいかに不穏か、人というものがいかに理解不可能なものか、一瞬ののちに起こることの何ひとつとしてわれわれが予測できずに、いまをこうして生きているかをあらためて思いしらされる。加工も作為もないと「映画」はこうなる。「ここから盛り上がりますよ」「いよいよ主人公が反攻に出ますよ」といった予感を抱かせない。そういった監督はあまりいない。

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