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『パーフェクト・ブルー』/虚構から虚構への地獄巡り(映画感想文)

今敏監督の『パーフェクトブルー』(97)を観た。
このとき今敏、34歳。漫画家として世に出て、大友克洋の製作する映画に携わったことがきっかけでアニメ業界へ足を踏み入れた彼の、初めて監督した作品である。
経緯としては、もともと用意されたある企画(原作者の竹内義和が映像化企画の発端だが、実写映画を想定していた節がある。)が巡り巡って「監督をやらないか」と今のもとへそのお鉢が回ってきたのだ。
この時点では「B級アイドルと変態ファン」という設定の、ジャンルとしてサイコホラーだった。完成した映画の主要な軸となる「夢と現実の曖昧な境界」への言及はこの時点ではまったくなく、今は興味を惹かれなかった(手垢に塗れた既出他作品の多いジャンル映画に過ぎないといった印象で、当初案は一蹴している)。
ただそれでも引き受けたのは「初監督の機会を失いたくなかった」から。
断る今に竹内は「次の3点を織り込めば、いかようにプロットを作り変えても構わない」と告げる。
「主人公がB級アイドル」「熱狂的なファン(ストーカー)が登場する」「ホラー映画である」、という三つだ。
それで翻意し引き受けた。このあたりの竹内の思惑を察するのもなかなか興味深い。

1955年生まれの竹内は、マニアックで度の過ぎたオタク的偏愛を武器に、80年代後半サブカルチャー界の知識人として知られるようになった。
そういう時代だったのだ。お堅い額入りの知識ではなく、雑学の延長といっていいような何か、いわれれば「そうそう」とノスタルジーを伴い感心されるようなネタ、「お前おもしろいこと知ってるなぁ」と唸りとまではいかずとも興味深気に軽い尊敬の目で見られるような人が持て囃された、いい時代だった。役に立たない周辺にある博学さに価値がある。そしてそこから多くの作品や、「こんなのがあればおもしろい」が生み出されていく。80年代とは「新しいものはないけれどおもしろいものがあった」時代だ。
今に企画が持ち込まれるのは94年。
サイコホラーの嚆矢でありそれを人々に根付かせた映画『羊たちの沈黙』が91年、それをミステリーで味付けした『氷の微笑』が92年。熱烈なファンが自分にとっての偶像に襲い掛かるといえば『ミザリー』、…ではなくトニー・スコット監督、デ・ニーロ主演の『ザ・ファン』があるがこちらに至っては96年。確かに、竹内の企画した「アイドルに熱烈なファンが襲い掛かる」作品は既視感に溢れ、何をいまさら、…のそしりは免れまい。
それでも竹内が(たとえ狭い層を観客として想定していたにしても)『パーフェクト・ブルー』の映像化に(プロットの改変を許可してまで)こだわったのはなぜだろう。

B級アイドルを広く知らしめたい、あるいはその存在を作品のなかに残したい、というのが大きなモチベーションだったのではないかと、個人的には思う。
この時点でサイコホラーはいくらでもあったが、B級アイドルにスポットを当てた作品は、知るかぎりない(あると思うが、広く知られた作品としてはない)。それを取り入れて作品を作っておく必要が、竹内にはあった。
そこからブームが起こると予見していたのか、単に愛着のあるものに先鞭をつけておきたかったのかまでは判らないにしても。

竹内の告げた三要素を残しプロットを一から組み立て直すとなったとき、今が「夢と現実の曖昧な境界」を発想したのは慧眼だが、検討の結果として思いついたのではなく、それは今の内的な必然に過ぎなかったのではないか、とこれも個人的にだが思う。
筒井康隆の熱心な愛読者だった今は、人の内面(腹のなかとでもいうか、本音)が表向きとは別のところに潜んでいることを知っていたはずだ。
同時に、虚構がひっくり返りまた次の虚構へと地獄巡りのように繰り返されるドタバタのおもしろみやその奥行きの深さも。
「本当かどうかわからない」ものはおもしろい。
ひとりのB級アイドルがいる。その存在が本物なのか虚構なのか(多分この時点で「女優」への転身というプロットが生まれたのではないかと思う)、アイドルとして成功しているように見えても、本当は「もっと違うところで唄いたい」「この程度しか売れていないわたしは本当のわたし(思っていたアイドル像ではない)ではない」と現状への疑問が連鎖して起こるうちにキャラクターに厚みができていく。
そうして、これが自分の望んでいた自分なのかどうかが自分でも判らなくなる、という入れ子構造へと補強されていったのではないか。とすれば「熱狂的なファン」も本当はファンではないかもしれない、となる。だが「アイドルを守り崇め奉るファン」と「アイドルを傷つけるもの」という裏表にしてしまえば、当初今が避けようとしたサイコホラーと変わり映えしない。そこで「陰から守っている(のかもしれない)」「陰で誹謗している(のかもしれない)」という存在へとこちらも肉付けされていく。
こうして、登場するほぼすべての人物が、主人公にとって「いい人」(脚本家であれば彼がシナリオに書いた役で主人公の人気が出る。その意味では恩人)でありつつ「悪い人」(しかし意にそわない汚れ役を押しつけた。役者を道具としか思わぬ悪いやつ)として配置され、それが主人公にも(そして観客にも)決定不可能になっていく、…という物語ができたのではないか。

こうした曖昧で絶対的価値観を持ち込みにくい背景は、竹内の提案した「B級アイドル」だったからこそ可能であった、ということが振り返ってみるとよく判る。竹内は、今が意識しないところで最高の素材を提供し、それを今は「手垢に塗れている」と思いながらも、無自覚のうちに最も自分の慣れた、好みのモチーフに加工していくことができたのだ。
思えば、筒井康隆とは他の作家が書かぬ「俗」を徹底して書き、お上品な建て前をひっぺがすことにかけてはこれ以上なく熟達した書き手だ。本音を暴く(いまさら七瀬を引き合いにだすまでもない)ことはもちろん、文学としても修辞で虚構を生み出し、読者に「いま自分は何を読まされているのか」といった陶酔を味合わすことのできる稀有な作家だ。その筒井的な部分にくわえ、大友克洋という、こちらは徹底したリアリズムで描かれる世界にあり得ないものを配置し、驚きやカタルシスを与えるという点において第一人者といっていいマンガ家の技も知るのだからして。

しかし、いまこうして『パーフェクトブルー』を観ると、なんと現実と虚構の曖昧さを描くのに、アニメという手法はマッチしていることか。実写映画において壁に貼られたポスターが突然話し出せば、あたかもそれは大林宣彦監督作品のようで、奇妙な味わいを醸し出しこそすれリアリティの上に乗っかった物語としては些か観客の感情を戸惑わせるだろう。しかしアニメなら、リアルの人物もポスターとして貼られている人物も、また画面のなかに存在する人物としても、その手触りは等価である。質感の違いのなさが、ここでは功を奏している。こういった表現の可能性があったのか、と思わされた次第

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