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『コラテラル』/妥協もあきらめも、敗北も撤退も、ない(映画感想文)

『コラテラル』(04)を観たのは今回が初めて。
wikで調べてみると「脚本のスチュアート・ビーティーが17歳のときに(アイデアを)思いついた」と書かれていたが、であれば企画の端緒は90年よりも前。そこから紆余曲折がありさまざまな役者や監督の名前が出ては消え、監督マイケル・マン、主演トム・クルーズ、ジェイミー・フォックスというところに落ち着く。
もともとは「ニューヨークを舞台にしたタクシー運転手、女性の図書館司書、殺しを目撃した女性の黒人警官らが登場する(もちろん殺し屋も登場する)ラブ・ストーリー」だったというが、僕が観た本作は少しもそんな映画ではない。フランク・ダラボンや監督によって大部分が書き換えられたのだとか、…こういう場合プロットや筋書きは誰が思いついたことになるのだろう。ビーティーの胸中がどうかはさておき映画のマジックを思うのはこういう逸話を知ったときだ。

クルーズが初めて本格的な悪役を演じた映画として話題に、とさまざまなところで謳われているが、いやいや、クルーズ最初にして最高の悪役は既に演じられているだろう、というのが僕の立場だ。それは10年前。吸血鬼のレスタトをやってるがな、という想いがどうにも拭えない
ところで『コラテラル』の殺し屋を誰がクルーズにキャスティングすることを思いついたのだろう?
合っていない? いや、ドンピシャだ。

映画の中心軸は異なる価値観を持つ二人が、ある夜出会ってしまった、というところにある。
まじめだが見果てぬ夢を追うだけで「夢を追う自分に憧れている」(結局は何も手に入れられず、しかし死ぬ際には「夢を叶えたかったなぁ」と満足気につぶやきそうな)市井のタクシー運転手と、すべてパーフェクトに自分の思い通りにならないと気がすまず、そしてそのとおりにしてしまう銀髪の精悍な殺し屋の二人。
ただそれだけ。しかしこの二人がよくできている。
脚本家としてクレジットされたビーティーは、それもまた複雑だろう。
人物たちの生まれや履歴や嗜好を精緻に決めて演出に持ち込むのはマイケル・マンの十八番であり、二人の人物の手触りとそこから生じるちょっとしたスリリングな齟齬はそうして生まれてくるのだから。「思ってたんと違う、…!」とビーティー、いっているかもしれない。
クルーズ演じる殺し屋には心がない。刹那的でもある。しかし妥協やあきらめがなく、そして敗北や撤退が想定にない
フォックス演じるタクシー運転手には「夢」はあるがその手触りをただ楽しんでいるだけでしかない節がある。「この仕事を何年やっている?」と問われ「12年」と答えるのだから。
街の道路事情にも精通しタクシー運転手としての技量は素晴らしい。そして正社員ではないと思われる描写がある。中途半端? そう、彼はどこにでもいる「われわれ」なのだ。
この誠実で几帳面な男(いちいち描写が利いていて性格が鮮明に浮かび上がってくる。上手い)が、人として破綻しているがプロ意識に長け「仕事だ」と無意識のうちに口癖のように自身の行動について語る得体の知れない危険な男に出会い、一歩踏み出す。何かを変えようと、…というか人生というのは本当は夢見るものではなく、ダイレクトにはたらきかけて、自身によってしか変えようがないものであることを知る。そんな一夜の、御伽噺のような映画。

物語はほぼほぼ夜の街をただ自動車で走るだけなのだが、切り取られる絵がとても洒落ていて美しい。マイケル・マンの美学炸裂。やり過ぎだがこの映画はそれでいい。ジャズを巡る挿話はベタ過ぎだが、それもカッコいい。スタンダードなよさが、絵にも役者の佇まいにも、科白のやりとりにも溢れている。
たいした作品ではないのに、…。
後半になり、人物のリアリティがやや破綻してくる。そんなことやらないだろう、というところに踏み込むのは物語必須の人物の成長や変化なのだからやってもいいが、要所で「え? そこ、もしかして笑うとこ?」と苦笑いしながら(迷いながら)ツッコミたくなる場面がいくつかある。
洗練されたプロ意識を持つ男ならそんなヘマをしないだろう、という(物語を進める都合上の)ヘマとか、「なんで気付かないの!」「そこ、逃げるとこ」とか、…まあいちいち挙げていくときりがない。ただ、そこに目をつぶって二人の価値観に向き合う姿を楽しめるなら、とてもいい映画。
役者も、マーク・ラファロや意外なところでハビエル・バルデムが出ていたりと豪華。ジェイソン・ステイサムはそこで登場すると誤解と期待を生んでややこしい。

本人に自覚があったのか、なかったのか。この時期クルーズは、さまざまな監督と組み、見聞を広げる修練の時期だった。前後して彼を長年支えていた重要なスタッフのパット・キングスレイが彼のもとを離れ(確かそののちブラッド・ピットに付いたという噂を聞いたのだが、…。未確認)、広報のポストにトムは妹のリー・アンを就ける。彼女もまたサイエントロジーのシンパであり、その渦中でトムは「オプラ・ウィンフリー・ショー事件」を起こす。彼のキャリア中最大の汚点となるこの事件で僕は「トムも終わった、…」と思った。スタジオが次々と彼から手を引いていったのだから。
しかしトム・クルーズは終わることはなかった。

※もう少しだけ、極個人的クルーズ祭りを続けます。

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