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『ケイコ 目を澄ませて』/誰もに生活があり、もやもやもあって(映画感想文)

聴覚障害のある小河恵子はプロボクサー。デビュー戦に続く2試合目も判定勝ち。所属しているのは下町の古いジムで、優しい会長とその奥さん、頼りになるトレーナーに囲まれ練習に励む。ビジネスホテルで清掃や室内メイクの仕事をしながら弟といっしょに暮らす。頼りなさ気に見える弟も実は姉思い。だが2戦目を観戦にきた母親は娘が殴られる姿を見るに耐えかね「もう辞めてもいいんじゃないの」と思わず口にしてしまう。ジムも経営難で会長の体調も芳しくなくなり、・・・。

物語はフィクションだが原案がある。生まれつき聴覚に障害があった小笠原恵子の自伝がそれ。
1979年生まれの小笠原は小学校時は普通学級に通い仲のいい友達もいたというが、4年生頃からいじめに遭った。中学校に入ると美術部で絵やマンガを描くことに没頭(このあたりは映画のなかでさりげなく彼女の資質の一端として描かれている)、しかしここでもいじめられて不登校に。高校は聾学校を選んで進学するものの周囲と理解し合う楽しさを知ると同時に溜め込んでいた感情が爆発することも頻発して起こり、教師や親への反抗的な態度や暴力で何度も停学処分を受ける。卒業後は歯科技工士養成学校へ進学。しかしバイクを乗り回すなどしている間に留年。そして2度目の2年生として過ごしていた時期にボクシングに出会う。
多少の物語的アレンジはあるにせよ(映画では恵子には健常者の弟がいる設定だが現実は恵子と同じ聴覚障碍者の妹がいる。職場がホテルではなく歯科技工士であるなど)、これ以降はほぼ忠実に劇中で描かれている。いや、彼女にプロになるようにと勧めてくれたジムの会長もちょっと違うのか。映画のなかに登場する三浦友和演じる会長も素敵な人物だが、小笠原に「プロになれ」と勧めたトクホン真闘ボクシングジムの佐々木会長は、小笠原が初めて出会ったとき目が見えていなかった。60歳頃に不運な事故で視力を完全に失ったのだ。初めて会ったときに小笠原が耳が聴こえないことを伝えると、佐々木会長はゆっくり口を動かし「わたし、目が見えないの」といったのだ

「上映時間が長い映画とボクシング映画にはハズレがない」というのが僕の持論だが、『ケイコ 目を澄ませて』(22)は上映時間こそ短いが(99分)傑作だった。
削り落とされてただぽんと、そこに剥き出しの何かを手渡されたような印象の映画。だがざらついた手触りは温かい。
音楽もなく、無駄な会話もない。

小説を書くときに説明と描写のバランス、会話と行動描写のバランスに腐心しうんうん唸らされるのはいつものことだが、この映画には描写しかなく無駄な会話も一切ない。聴覚障碍者を中心に据えているという設定上の条件もあれ、こうまで会話を削ぎ落して尚且つここまでエモーショナルな作品を作り上げることができるのか、と驚かされる。確かに現実において人はそうそう感情を上手く言葉に出して生活してはいないし、言葉によって何かが展開するということも稀だ。仕事の世界において言葉が有効にはたらき感情を揺さぶることもたまにあれ、実際には誰もそうそう巧みに喋ってはいない

最近映画を観ている途中で(趣味としてあちらこちらに感想めいた駄文を書くことがあるので)、自分が「物語」としてではなく「テキスト」として受け止めていることに、はたと気付かされることもあるのだが、『ケイコ』を鑑賞している間は少しもそんな(どう書こうとか、何を読み取ろうとか)考えてはいなかった。没入していた。感情移入というのともちょっと違う。ただそこにいて出来事を眺めながら、それを「創られたもの」ではなくドキュメンタリーを見ているかのように受け止めていたのだった。すべて本当の出来事のように
先に書いた小笠原恵子の現実の逸話はあとになって知った。もとから知っていればまた違った観方になっていた気もするが、ただそこに起こっている出来事をいっしょになって体験しているような不思議な時間だった。それは大変幸福な時間だったのだと思う。いかにもなピンチも盛り上げるための作為的な悪意の発露も、わざとらしく用意された幸福も、ここにはない。
要所に仕込まれたちょっとした人たちの言葉にリアリティがあるがゆえにそう感じたのだろうか。生き様を感じさせられたというか。
エンディングに写されるものが、それをより引き立てていた。ようやくそこで、映画のねらいがどこにあるかを少しだけ考えた、…。誰にも生活があって、誰もが小さなもやもやを抱えていて、そして誰もが前向きに何かに取り組み生きている。そんな映画だった。

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