見出し画像

『逆転のトライアングル』/自意識過剰を嘲笑う(映画感想文)

僕にとっては初リューベン・オストルンド監督作品。
『逆転のトライアングル』(22)を観た。

昨年カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞。最初に聞いたのは「豪華客船が難破して島に漂着。ライフハッキングに最も長けていたのがトイレ清掃員で島に着いてからはヒエラルキーが逆転する」だった。
次に劇場予告で観たのが、モデルたちが庶民的ブランド(H&Mだった)の撮影では親近感ある満面の笑みを浮かべ、高級ブランドの撮影では客を見下した不愛想でカメラの前に立つ、……という思い当たる節があれば爆笑を禁じ得ないシチュエーション。

インフルエンサーが、とか大金持ちのロシア人が、といった情報もちょいちょい入ってきていたが、実際に観てみると情報の断片からイメージしていたどんな映画ともと違い、ただ……、何だろう、これは。ひたすらブラックでシニカル。心当たりありまくりの大変な映画だった。「みんな、そう思ってるでしょ」と皮肉られているようでもあり、それを笑っているとまた「それで笑っている自分って意識高い系だと勘違いしていない?」と質される気分。

本編は大きく3章に分かれている。
序盤では主人公となる二人の関係が示される。カールは売れっ子には程遠いモデルでオーディションでも審査側の反応はいまひとつ。同じモデルのヤヤと付き合ってはいるが、人気インフルエンサーで稼ぎも多いヤヤは、「モデルの仕事を辞めるのはお金持ちのセレブと結婚するとき」とカールに平然といい放つ。二人で食事に行っても「払うわよ」といいながら、カールが払うように仕向ける。だからといってヤヤが「嫌な女」に見えないところが、この監督、さりげなく上手い。いかにもな現代的価値観だが、ただ表面的にトレンドを借りて処理しているだけではない。カールも同様にいかにもな現代っ子だが些か小心な彼の言い分には首肯できるところもある。

たとえば、いい服を着ている人は安い服を着ている人を内心で見下したり憐れんだりしているかもしれない(多分していると個人的に思う)。安い服を着ている人はこの世に「いい服」があることに気付いていない。「いい服」を着たいと思っているけれども買えない状況だったら悲劇だ。そんなものに興味ない、たかが服に高いお金を出すのは莫迦化ているというのはひとつの考え方だが「いい服」側から見ればその考え方は憐れで、負け惜しみとも受け取れる。そんなものには興味がない、という人にしたって一度袖を通してみればその良さにはっとさせられる筈なのだ。そのよさを知らないことが憐れだ。

しかし「いい服」を着て満足しているという状況にも何かに(他者の作り出した価値観に)踊らされている感がある。それはいいものだが、本当にそこまでお金を出す価値があるのだろうか。ただ「いい服」を着ただけでは何も変わらない。人を見下せる上位のステージに上がったわけではけっしてない(人を見下す人間は絶対的に上位に立てやしないのだが)。ただ「買える」という、それだけのことだ。

……、こういう「どちらも莫迦っぽくて笑える」という視点がこの映画のなかではすべてにむけられている。映画に登場する誰もが何か間違っていて、正論を口にしているようでもどこか恥ずかしい。でもそこにある説明不可能の間違いこそが資本主義の(いや社会主義もここでは笑われているのだった)、人の生活を成り立たせている何かなのかもしれない。

人は相対的に物事を考える変わった生き物だ。ただ生きるだけでなく、人よりよく(楽しくとか美しくとか偉くとか得をしたいとか)生きようとする。そのこと自体は悪いことではないのだけれど、そう思う時点で既に欠落を自覚していることになる。そしてその欠落は生きることとあまり関係がないことも多い。

映画を観ながら僕は芥川の『鼻』に登場する禅智内供を思い出していた。醜い大きな鼻を気にしていない、さすが徳を積んだだけある、とそれまで賞賛されていた坊さんが念願の普通サイズの鼻を手に入れた途端に人から笑われるようになるというあの話。それからこの文章を書きながら、目が二つある健常者も一つ目の国に行けば障害者として扱われる、というエピグラムも思い出していた。

笑い飛ばすにはなかなか勇気がいる映画。観ている間はめちゃくちゃ笑えるが、幕が下りたところで「うーん」と唸って自分を省みる。そんな奇妙な映画です。人に勧めるだけでスカした嫌なやつ? と思われるんじゃないかという気がしなくもないけど。

この記事が参加している募集

#映画感想文

68,930件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?