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『レインマン』/正当な、最初の野心(映画感想文)

『レインマン』(88)を観た。
若くして弱小ながらも高級輸入車を扱う会社を経営するチャーリーをトム・クルーズが演じている。当時26歳、出演作は11作。5作目の『卒業白書』(83)が予想外のスマッシュヒットになり十把一絡げのブラットバックから頭一つ抜きんでた、というのが当時の映画業界評。
生意気で野心家だが何かを契機に心を入れ替え観客のハートを鷲掴みにする若い役は、ソフトの定型キャラクターであり、どの時代でもそれを演じられる役者がひとりは必要なのだった。白羽の矢が(きっと最初はたまたま)たてられたのがクルーズだった。それはやがて『トップガン』(86)に繋がる。以前別のところで書いたが、クルーズは『トップガン』ではスクリーンに現われたファーストカットからエンディングまで何ひとつ変わることなく成長もしないのに周囲からちやほやされる奇妙でスカスカの人物を演じている(演じているといっていいのか?)のだが、それでも成り立つ容姿とふるまいを彼は持っていた。こんなにクルーズが好きな僕がいま観ても好感も才能も感じられない『トップガン』と前後して、『ハスラー2』(86)のオファーがあり、そしてこの『レインマン』のチャーリー役が舞い込んできたのはいったいなぜなんだろう。(サイエントロジーとは関係ないと思う)

『レインマン』を観るのは30年ぶりくらいになると思うのだが、やはり素晴らしかった。バリー・レビンソンのニュートラルな演出もいい(『グッドモーニング、ベトナム』(87)は役だと判っているもののロビン・ウィリアムズが過剰で重たい、…。)。
企画が立ち上がってから二度の監督降板劇があったと当時のパンフレットに記載がある。レビンソンが監督に決まったのはホフマンやクルーズよりもあとという話だが、その前、二人目に指名された監督はシドニー・ポラックだった。彼が降板することがなければ映画はもっとシリアスで重たい作品になっていたはずだ。障害を持った人を描いた映画はアカデミー好みだが、レビンソンの手に掛かるとそれを笑ってもだいじょうぶだいう雰囲気が生まれる。人の根本の部分を優しく照射する演出力があるからか。
障害といえば、劇中でホフマン演じる兄がサヴァン症候群(劇中では「自閉症」といわれている)だが、スクリーンのこちらの現実ではクルーズ自身が学習障害でデイスレクシアなのだ。それが克服できたのはサイエントロジーのテキストのおかげだとか。日本ではさほど話題になることはないがクルーズはこのサイエントロジーのおかげでいくつかの問題を突きつけられている(ヨーロッパではフランスやドイツで悪質なカルトだと認定されている。そのためにパリが名誉市民とするといった際に猛反発が起こってもいる)。ジョン・トラボルタも同じ。彼が製作・主演を務めた『バトルフィールド・アース』(00)はSF作家でもあり創始者でもあるロン・ハバートの小説をほとんど私費で映画化したものではなかったか、…(結果この年のゴールデンラズベリー賞をほぼ独占)。

障害を揶揄する意図はまったくない、と前置きしたうえで読んでもらえたらいいのだが、30数年前とはやや異なる感慨を今回いくつか抱いた。
劇中において、クルーズ演じるチャーリーの恋人が、あまりにも傍若無人に自己中心的にふるまう彼に「あなたの話はぜんぜん判らないわ!」と半泣きで訴える場面がある。利益に目がくらみ、兄であるレイモンドを病院から連れ出したのだが、当時は「世間知らずで野心だけはある若造が好き勝手してやがるなぁ」程度にしか僕は思わなかったし、チャーリーの行動を世間もあるいはスタッフもさほど問題にしなかったが、いま見れば野心家で打算的なチャーリーのこの行動は行き過ぎだ。常軌を逸している。これがアメリカ社会だ、といわれればそうかもしれないが。もちろん、だからといって「レイモンドの方がまともだ」とは思わない。バビット兄弟は二人ともおかしい、父親の顔が見てみたい、…と思っているとふとしたところで父親が息子たちへ強い愛情を注いでいたことが匂わされる。自動車への偏愛が強すぎるとはいえそこにも息子であるレイモンドとの愛情に満ちた交流が浮かび上がる。稚拙な回想など断片もないのに。脚本が本当にスゴいと思うのはそういうときだ。

この映画でホフマンは二度目のアカデミー主演男優賞を受賞している。クルーズは助演男優賞にノミネートさえされていない。ただ、以降クルーズは三度ノミネートされるが逃し続け、そして残念だがもう受賞はない(と僕は思う)。アカデミーとは(演技の評価においてはほぼ無縁の)MIシリーズが彼のメインの仕事になり、単発の良作に出演させるために、高騰した彼の出演料をスタジオが払うとは到底思えない。
しかし『レインマン』のクルーズは本当に素晴らしい。
細部で、ふとした場面で、彼の些細な変化、心情の波の揺れが判る。それはレビンソンの演出の力でも当然あるだろうが、それを凌駕した何かがふと表れる瞬間がある。この時期、ポール・ニューマンやホフマン、あるいはブライアン・ブラウン(『カクテル』の彼は本当に恰好いいのだ。クルーズとの関係が出藍の誉れであっても)も含めて周囲に対して対等に張り合いたい、自分は負けてはいられない、というチャーリーのそれよりもはるかに正当な野心が溢れ出ていたからだろうか。とても爽やかに。それが確かなクルーズの顔として現れるのにはまだ10年程待たねばならないが。そのとき彼はジェリー・マグワイヤという名前で、痛みも優しも仲間との共感も備えた男としてもどってくる。


※しばらくトム・クルーズについて書きます。

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