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『あんのこと』/「正義」の力が弱まっている(映画感想文)

「昔の方がよかった」「最近は恐ろしい犯罪が増えている」、と安易にいうことはできないし、そうでもないと思うのだが、ただ「正義の分量が減っている」という気はしている。かつて「正義」が持っていた力が弱まっているとでもいえばいいのか。
以前なら悪いことをした者でさえ「自分は正義に反したことをしている」という自覚があった筈なのだ。だがこの20年で「正義」は形骸化し、ただのお題目、…というよりは彼岸の他人事のようになってしまった。
理由はいろいろある。
政治のせいで人びとの心から余裕や希望が奪われたということも当然あるだろう。貧しい人が増えたために、社会はおろか隣人やたまたま見掛けた困っている人(困っていなくてもいいのだが、誰か)の状況を慮ったり手を貸したりすることが減った。卑近な例で申し訳ないが、電車のなかにベビーカーを持ち込むお母さんに対し、友人がFacebookで「人の迷惑を考えろよな」と書いていたときには、普通の生活をしてきたこの男でさえ、こうも性根が腐っているのか、と嘆かわしいのを通り越して慄然とした。他人の迷惑を考えろという以前に、なぜお前は現代の社会でひとりの母親が置かれている状況というものに想像力を働かせることができないのか、と。
他人に一度でも助けられたり、思いやりのある接し方をされた経験があれば、そのときに「いい気分」になったことがあれば、こうも歪なくだらない考え方にはならない、と信じたい。他人の立場を想像する余裕がないのは、本人が貧しく、ただ自分のことで必死だからだろう。そうなると自分が正しいと思うしかなく、周囲に対して自覚のない蔑みが生じ、やがてそこに悪意が根付く。

「他人に一度でも助けられたり、思いやりのある接し方をされたり」する最も初期のそれは、親からの庇護に違いない。
愛情を以て育てられればその子は他者へ愛情を以て接することを学ぶ。その逆も起こりうる、というのはよく指摘されることだ。
年の離れた生徒と接するうえで「この子たちは生まれたときからインターネットが当然のものとしてあった」「スマートフォンを大人が当たり前のように使っているのを見てきた」という前提を忘れないように自分にいい聞かせている。
ここ最近の時代の移り変わりの速度は侮れず、価値観の変容も加速化している。(幸い、僕の周りにはいないのだが、「幼児の自分をかまう時間よりも長い時間、親はスマートフォンに向き合い、それが人と人との当然の関係だと刷り込まれた」人もいるだろう)。
終身雇用に対する考え方や結婚、家庭観がこれだけ変わってしまったのだ。善悪について、「正義」について、変わらないとはいえない。
犯罪が増えたとか低年齢化が進んでいるとかいう指摘よりも問題なのは、「正義」が無効化していくなかで、善悪の区分やそれを越える覚悟がかつてと変容し、いまは容易くそちら側へいってしまう、その方が生きやすい(とは本当は思いたくない。そうしないと生きられない、という言い分が罷り通るようになった、…とでもいえばいいか)という人が増えていることだと思っている。
その親から同じ価値観を無自覚に植え付けられる子どもが増えれば、当然社会はより、思いやりを失い、正しいことが通らない。

『あんのこと』(24)を観た。
子どもを殺す動物もいるのは知っているが、自分のために子どもを利用する動物はいない。人間だけだ。なぜなのか。社会の仕組みがおかしくなっているからだとしか思えない。
扱っているテーマも、誰が出ているのかも、事実からインスパイアされているということも知らずに観に行き、ただ打ち拉がれ劇場をあとにした。驚きや、まさか、といった感想はなく、ただ「そうだよな。こういうことは起こりうる」と思っただけだ。そして、これまではドラマのなかで悲劇的なマイノリティとして描かれていた人たちの苦しい生活が、現実に社会(か政治か)の変化のためにこれほどまで多く存在し、ごく普通に暮らす人のすぐ隣にある、あるいは(恐ろしいことに)ごく普通に暮らしている人が容易くそちら側へ転落して行くという現実に慄然とする。
人生とはこうも生き辛い、難しいものだったのか。

現代の社会、特に都市部ではセフティネットも不完全ながら備わっている。情報が十分にいきわたっているかの議論はまだ必要だが、そこに手を伸ばせば苦境から抜けだす方法が見つかる可能性もある。
そのセフィティネットがあの時期、誰にも見当も予測もつかない出来事により分断されたことを映画は鋭く指摘している。
想定内の普通の家族、標準的な市民を対象にした施策のからこぼれ落ちた人たちがいた。夜学に通う外国人であるとか、日々真面目に働きながらも蓄えや勤め先からの休業補償がなく、自転車操業的生活が破綻した人たちだ。戦後経済のなかで想定された生活スタイルがいまは通用しなくなり、それを想像できない為政者は結局その人たちを「見殺し」にする、…。
あの当時の貴重な記録として、また今後見過ごしてはならない新たな問題点を指摘した稀有な例として、『あんのこと』には価値がある。
今後こういった人や家庭が増えていくことに対して、自分たちに何ができるか、そういった想定ができる為政者を自分たちが選べるか、をわれわれはよく考えなければならないだろう。

ずいぶん以前から疑問に思っていたことだが、親が「自分の子どもがいちばん大切」と思うのは当然として、そこで「他人よりも」と思う人と、「でも社会も」と考える人とでは何が違うのか。
これは最初に述べた社会の変容や貧困化とは別の疑問だ。
自分の子どもが弱くて、鈍臭くて、きっとみんなから追いて行かれると危惧する親は「他人よりも」と強く思うのかしら。
だがそれが世代交代していくなかで純化し、他人を出し抜く、人のことはどうでもいい、自分だけが得をする、という人を量産しているのだとすれば悲劇としかいいようがない。
もしかして、社会全体が同じ目的や理想を共有してそちらに邁進するようになればいいのかしらん。だが多様化の進む社会のなかでそれはますます困難になっている。
「他者を尊重すること」の基本には「他者を知ること」がまず欠かせないと思うのだが、「きみって、ゲイなん?」という質問自体が気持ちの有り様をまったく考慮せずにハラスメントだといわれると、知らずに理解することはできない(知らずに理解したふりをすることほど、厚顔無恥で無責任なことはない)と思っている僕には、現代の社会は何をどう献身的にやろうとしても〇〇ハラスメントの壁に塞がれ八方塞がりである、…って最後はちょっと話が『あんのこと』から逸れてしまいました。スミマセン。

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