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『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』/無知な人間には善悪の区別がつかない(映画感想文)

17世紀頃、西部で巨大で強力な部族として地位を築いていたオーセージ族インディアンだが、1825年にはアメリカ合衆国に地域の領有権を譲渡している。
やがて南北戦争が起こる。1870年には領土保障についての交渉を合衆国と行い、その結果さらに居住地を求め西へ移動。
1875年、ようやく彼らは「信託ではない」自分たちで手に入れた土地に落ち着いた。オクラホマ州だった。オクラホマ準州として半自治が認められる。貸与ではなく正しく購入して得た土地であり、鉱業権も彼らが所有する。
1897年、フェニックス石油会社が最初の油田をこの地で掘り当てる。
他のインディアン部族はどうだったか。オーセージ族のように、「信託ではない」土地を所有する部族は他にはなかった。あくまでひとつの考え方だが、オーセージ族は多すぎる土地を所有している。過剰なロイヤリティを得ていると考えるものもいたかもしれない。
やがて彼らは国内で最も裕福な部族として数えられるようになった。
そこへ、人頭権や土地、受け取るロイヤリティを奪い取ろうとする白人たちがやってくる。狡猾に。画策したもののなかには部族保護を目的とする連邦法に基づき、オーセージ族の「保護者」として裁判所から任命された弁護士や実業家たちもいた、…。

スコセッシ監督の『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』(23)は、オクラホマ州オーセージで起こった事件を題材にしている。
原作は17年にジャーナリストのデヴィッド・グランによって書かれた「花殺し月の殺人/インディアン連続怪死事件とFBIの誕生」だが、脚本化にあたり大幅にアレンジが施された。中心人物から全体の構成から、かなり大きな変更が加えられている。

映画の中心となるのは、首謀者とされているウィリアム・ヘイル。通称キング。
戦争から帰還し伯父であるヘイルを頼りオーセージへやってきたアーネスト。
そして彼が妻として娶るオーセージ族の女性モリー。
鑑賞しているうちにタイトルの意味が判ってくる。「キラーズ」と複数形になっているのは人の生命を奪った殺戮者がひとりではないからだ。誰か。
殺されるのはオーセージ族のものたちだが、彼女たちはなぜ殺されたのか。
歴史を知れば、過分な富を手に入れた部族からなにものかが財産の横取りを企んだからだ、ということが判ってくる。しかし、…手に入るのは莫大な巨万の富だが、だからといってそうそう安易にこれほど多くの人々があっさり自らの手を汚すか、…と普通なら考える。
「配分された財産を所有する部族の女性と結婚すれば、白人男性もそれを受け継ぐことができる」というのがシンプルな財産分与の仕組みだ。珠代さんと結婚したものには財産の何分の一を与え、…という(横溝正史の小説などで)おなじみのルールが州として公式に制定されている。
日本でも保険金受取の仕組みを都合よく解釈し、自身の妻を亡き者にしようとする狂った夫はこれまでに何人も現れ事件史に名を刻んでいるが、オーセージで行われたのは白人集団による、ほぼ街ぐるみの殺人だ。いくら勾引かされたとはいえ、これほど多くの人が多くの人を殺すだろうか。それも娶った妻を。金に目が眩んだとはいえ、そうそう良心というのは容易く麻痺し、無力化するものなのか

キングと呼ばれるヘイルを演じるのはロバート・デ・ニーロ。
優しい好々爺といってもいい風貌、穏やかな口調に振る舞い。親身に白人も部族の人間も労り、助けようとする。そして、白人をあたかもゲームの駒のように操り、平然と部族の女たちを殺していく。彼の心のなかはどうなっているのだろう? 親し気に、心から寄り添い励まし、慰め、そして時期が訪れれば躊躇なく生命を奪う。その姿は『エンゼル・ハート』(87)でみせたルイスの再来だ。
人の善悪がどれだけ抽象的に混じり合い、心のなかで複雑な姿をしているかを思い知らされる。いい人が邪悪な行動をとることがあることをわれわれは知っている。ある人に対して献身的に厚意を行使する人が、別の人をひどく蔑みひどい対応をみせることがあることも同様に。客観的に見て善人と悪人とを線引きすることは難しい。
ヘイルは部族の言葉も話し、その文化や習慣にも深い理解がある。それでも本心ではオーセージ族の人びとを差別していた? かもしれない。自分と同じ「人」だと考えていなかった? 可能性はある。しかし、それはヘイルの見た目や言動だけで看破できない。
そのヘイルの甥を演じるのがディカプリオだが、彼もまた、悪人と決め難い。個人的には、僕は最後まで、彼が悪い人間だとは思えなかった。ただアーネストには教養がない(こういう役がディカプリオは本当に上手い。アイドル顔で売っていた頃から考えると、よもやこんな性格俳優、…それも他にいない役を演じるようになるとは)。
無知で教養がなく正義の観念が欠落している。教養がないと正しい行動ができない、という人生の恐ろしい哲学の一面を、彼を見ていると思い知る。
金が欲しい、女も好きだ、だからといって人を殺して手に入れればいいとは彼は考えない。むしろ、「だからといってなぜ殺すのか」と彼は思っていたかもしれない。自分の愛した妻たちを。金のために白人の男に乱暴をはたらくことを躊躇しないアーネストは、価値判断に常識が欠けているので、何をするか判らない。自分でさえ、何をすればいいのか判っていないようにも見える。
こういう人間は稀か?
善悪の判断の狂った頭のいいリーダーが、闇サイトで募集し受け子に使うのは? アーネストのようなタイプの人間ではないか。よくよく考えてみると現代とそう変わらない。彼らは悪人である以前に、無知だ。指導する悪者はそれを熟知している。無意識的かもしれないが、自分の指示通りに行動するものか否かが判る。善悪のコードを持たず、自分で判断することをしない人間を見出し、そして片棒を担がせる。そのリーダーが獲物として狙うのは、 現代では情弱の老人や、社会的弱者だ。オーセージ族は弱者ではない。ただ、彼らは厳格なルールに基づいて自然とともに生き、他者から奪うということをしない。
正しく、欲のないものが傷つけられ、狡い、良心の欠落したものが奪い取る。
どちらも人間には違いない。

何かしらの結論を導き出すことも可能だろうが、答えが出たからといって安心してはならない。人というものがいったい性善説に裏付けられているのか、基本的に性悪説な生き物なのか、長きに亘その答えは出ないままなのだから。
ただ、どちららでもなかった無知なひとりの人間が、大きな転機もこれというきっかけもなく、混沌とした暗い悪に染まっていく様がゆるやかに、丁寧に描かれる。3時間? いやいや、少しも長くない。それだけの時間を費やして描くだけの意味がある、と思った。突発的なひとつの出来事で人は変わるのではなく、何も起こらない長い日常のなかで、何かに染まっていくものなのだ。それだけ油断ができず、気付きにくいものでもある。静かに、よくないものが蔓延し、人を人ではないものへと変えていく様を描いた傑作。

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