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『インセプション』/代替の夢さえ許されない(映画感想文)

「どうして、…」
マーシャがおびえた声でいった。「わけがわからないわ」
「ぼくたちは戻ったんじゃないんだ」ハミルトンがいった。「これはぼくたちの世界じゃない」
普通の大きさにもどった顎をなでながら、マクファイフが抗議した。「腫瘍におかされたおれの歯もよくなってるぞ」
「これはシルベスタの世界でもないんだ」ハミルトンはマクファイフにいった。「誰かほかの者の世界だ。誰か第三者の。なんてことだ、…。ぼくたちはもどれないんだよ」苦悶に満ちた顔をして、呆然としている者たちにいった。「いったいいくつの世界があるんだ。こんなことが何回繰返されるんだ」

床に八人がばらばらに倒れていた。誰ひとりとして完全に意識をたもっているものはいない。八人のまわりには、崩れて煙をあげる廃墟、八人が立っていたものの混沌とした残骸、以前は観察台だった焦げた金属の支柱とコンクリートがあった。
ベッドで寝返りをうちながら、ハミルトンはとぎれることのない光景をじっと見つめた。何度となく調べてみた。情景のあらゆる面を吟味した。目覚めに近づくにつれ、目にするものが薄らいでいった。おちつきのない眠りにしずみこむと、情景がふたたびあらわれ、明瞭きわまりないものになるのだった。ハミルトンのかたわらでは、妻が眠りながら体をよじって溜息をついた。ベルモントの町では、八人の若者が寝返りをうちながら目覚めると眠りを繰返し、ペヴァトロンの不動の輪郭と、大の字になったり体をねじまげたりしている姿を何度も見ていた。
(中略)
いったい医療班はどうしたのだろう。ハミルトンは叫びたかった。ヒステリックにどなりたかった。どうして医療班は急がないのか。もう四日目の夜だというのに、…。
しかしそこではそうではないのだ。その世界、現実の世界では、怖ろしい数秒が経っているだけなのだ。

×  ×  ×  ×  ×

IMAXで『インセプション』(10)を観てきました。
冒頭に引用した小説は少し長くなりましたがノーランの映画『インセプション』とは何の関係もありません。P.Kディックの『虚空の眼』(57年。現在はハヤカワ文庫より『宇宙の眼』として刊行)の一部です。
『インセプション』は他人の夢のなかに侵入、さらにその夢には複数の層があり、夢のなかでまた誰かの夢に入り、さらにその夢のなかで、…といった骨組みを物語の基幹条件として持っています。監督が映像的に見せたい! と思った条件から逆算で考えられたご都合主義的な条件もありますが、夢と別次元との時間の流れがズレる、という設定は邯鄲の夢からの発想かもしれません。
先に引用したディックの小説の筋書きはこうです。巨大な陽子ビーム偏向装置が暴走事故を起こしそばにいた八人の男女が別の世界へ吹き飛ばされてしまう。それは横たわり意識を失っている誰かの意識下の世界で、常に七人は誰かの肥大化した意識のなかに取り込まれている。それが誰の意識なのかは判らない。しかし現実には八人はただその事故現場に横たわり医療班の救援を待っているだけなのだ、…。
失われた意識の往復と、設計した「捏造の夢」とではまったく異なりますが、しかしそこで進行する両者の物語は驚くほど似ています。
劇場で最初に公開されたときにはこの類似について僕は気づきませんでした。僕の個人的な発見に過ぎませんが、それこそ劇中のコブの科白のように「頭のなかに思い浮かんだ発想は消えることなく意識を支配」します。『インセプション』自体には他にも多くの引用や仕掛けがあり(イームスの夢である第三階層が雪原なのは北欧神話に出てくるイームが霜の巨人だからではないか、…? というのも僕の勝手な着想です)、それをいちいち指摘するのはノーランの術中にはまるというより、監督にとってただわずらわしいだけだろうと思うので控えますが、そういったテキストとしての読み方がいくらでも出来る作品になっています。
ただ、そういった装飾を剥がしていくとこの映画、実はほとんど何も起こっていない、かなり退屈な映画でもあります。それもその筈、登場する人物たちはみんな、シドニー発ロサンジェルス行きの航空機のなかでただ眠っているだけなのですから。

最初劇場で観たときはなんとも退屈で複雑なだけの映画だ、と思いました(『メメント』を劇場で観て以来ずっとノーランが嫌いで、『インソムニア』を観たときも「不眠症の映画をなんで眠たいのをがまんしながら観ているんだ」と睡魔に抗いながら思っていました)。自身の下したその評価が本当かどうか確認するつもりで今回IMAXで鑑賞したのですが。
やっぱりご都合主義的で実は何も起こっていないという展開に理性は再びブーイングを起こしかけたのですが、感情は大いに刺激されおもしろがっていたことを告白します。橋上から転落するバンの映像がスローモーションで挿入される度に「そうそう、何も起こってないんだよね」と現実に引き戻されやや鼻白みましたが。

この映画はコブが自身の過去とどう決着をつけるか、という映画です。それ以外のものは何もなく、感動的なロバートの父親との確執・自立でさえも偽物です。しかしノーランはそれを強引に映像の力でエモーショナルに盛り上げます。まるで僕らがインセプションされたかのように! 感情なんて所詮形のないニセモノの刺激で揺さぶられるものなのだ、とでもいわんがばかりに。
唯一の映画的真実はコブの妻が自殺していることであり、自分が意識を操作したがために妻が死を選んだという過去をひきずる主人公がその過去とどう折り合いをつけるか、…という物語でしかありません。ただその妻の死の責任でさえ本当にコブにあったかどうかを決めることができないのは、その事実もまたコブが主観的にただ語るだけ、という構造になっているからです。演じているのはディカプリオですが、ここ最近の彼はこういう「表面的にそうは見えないけど実はうじうじしているだけ」という役柄が多く、なかなかハマっています。違ったのは『ジャンゴ』(12)くらいでしょうか。(あ、『レヴェナント』(15)がありましたね、…。)
『インセプション』の主人公コブが集められた他のメンバーと比べて少しも優秀に思えない、という点はノーランのミスだと思います。彼の相棒であり彼を助けるアーサーの方がはるかに魅力的で、特に夢の第二層を支配しているのが彼であることも手伝い、大変な活躍を見せます。演じているのはジョセフ・ゴードン=レヴィッド。急な代役でこの映画への登板が決まったそうですが、とても素晴らしく印象に残ります。
コブの集めたチームには、紅一点のアリアドネが捏造された夢の設計士として登場します。演じているエレン・ペイジは少女のような容貌で設定も学生、コブの亡くなった妻(マリオン・コティヤールが演じています)が成熟した大人の女の雰囲気を醸し出しているのとはまったく反対です。アリアドネはその名前からして象徴的で、彼女に与えられた役割は複層の絡み合った夢のなかからコブを入り口に導き戻すことであり、それ以外の役割はありません。クレタ島に作られたミノタウロスの迷宮からテセウスを救ったのはアリアドネが渡した糸玉ですが、もとより彼女の名前には「潔癖で聖い娘」の意味があります。ノーランが彼女の名前に持たせたもうひとつの意味、「彼女はコブとは恋愛にも性的な関係にも落ちませんよ」という宣言がここにも仕込まれているように思います。
コブの妻とアリアドネ、コブは三角関係にある、という批評が絶対に当てはまらないと考えられるのは、そうするとコブが「妻のいる夢」から現実へと戻ると決めた理由が単に妻よりもアリアドネに惹かれたからだということになり、それでは「たとえ辛くとも現実しか選ぶことはできない」というテーマが脆くなると思うからです。
たとえすべてが思い通りになるとしても夢は夢、われわれは現実のなかに踏みとどまりそこで生きるしかない、というノーランにしては珍しくはっきりとテーマを語っているように思います。そこに「現実をまず直視せよ」と告げるメディア自体が「現実ではない創作物である映画」というパラドックスが生じます。ノーランは現実の大切さを悲痛なほど訴えながらも、その訴える手段が現実のものではない、というジレンマにはまり込んでいるようです。
妻との生活は幸せで至高だった、しかし死んでしまえばもうそれは失われ現実ではない。そうなるとわれわれは新たな現実に向き合うしかない。記憶や夢や想像だけに留まることは許されない。アリアドネに恋愛的魅力を感じていっしょに戻って来たのだとすれば、それはコブにとってはただの代替の夢でしかないのです。

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