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『透明人間』/本当に怖いのは見えないことではない(映画感想文)

ウェルズはやはりスゴい。
タイムマシンといい多重人格を操る薬品といい彼の考えたガジェットは創作物の歴史のなかで燦然と輝きを放っている。彼が小説『透明人間』を書いたのが1897年。以来多くの映画や透明人間の登場するマンガやドラマが作られている。
何がスゴいって、そのオリジナルの物語についてほとんど知られていないのにガジェットだけはしっかり歴史に残っていることだ。バーホーベンの『インビジブル』(00)も、リー・ワネルの『透明人間』(20)も、ウェルズの原作とはまったく違う。それでも原作はやはりウェルズなのだ(原案でもいいのに)。
いつか「どこでもドア」や「通りぬけフープ」だけをネタにしてまったく『ドラえもん』の登場しない映画が作られる日が来るのだろうか。そのとき同じ感慨を僕らは抱くだろうか。

リー・ワネル監督の『透明人間』は、しかしやや客観的に意地悪い視点で見れば、別に「透明」でなくてもいい。監督も当然そこは判っているらしく、物語の中盤で「透明」であるがゆえのサスペンスを少しだけ用意しているものの、主人公セシリアが病院に収容されてからのアクションではさほど透明であることの怖さを前面に押し出してこない。この映画は「透明」でなくてもいいのだ
ではサスペンスの軸はどこにあるのか。
それは「本当かどうか確定できない」ことにある。セシリアが「そこにいる」と告げても他人には「いると思えない」、「自分ではない」といっても周辺の人間には「お前しかここにはいない。すなわちお前だ」となる。映画を観た多くの人が途中からあるトリックの予兆を抱いていたと思うのだが、透明人間の怖さは「本当に見えないこと」ではなく「見えないから本当は誰なのかわからない」ことにあり、物語の後半で軸をその点に置いた脚本は慧眼である。
この映画は「真実の不確定性」を描いているのだ。
ある犯行をやったのが透明人間であることは判っている(映画を観にきている観客はいちばん判っている)、しかしそれが本当は誰なのか判らない。だって見えないんだもの。
先に「この映画は『透明』でなくてもいい」と書いたのはこの映画は視覚的な「ウソ」を描いているからだ。監視カメラやリモートカメラで観たものがすべて間違いない、と思われる一億総監視社会だからこそ、見えない不安がより引き立つ。
スクリーンのなかで見せられているものはいったいどこまで真実なのか。
そういった点でこの映画は驚くほど『ゴーン・ガール』(12)に似ているし、ある意味これもバーホーベンの『氷の微笑』(92)の末裔といってもいい。

自分たちがいちばん映画を観ていた時代から大きく映画が変わりつつある気がしている。
何が、と問われても具体的にこれこれこの点が、とはいい難いのだけれど、脚本なのか演出なのか音楽なのか。監督や役者の世代交代といった問題ではなく、新たなセンスが持ち込まれ制作時の優先順位が違ってきているのだろうとしかいえない。
スピルバーグではなくフィンチャーが出てきて、それからさらに十数年が経ちさらに何かが全体的な流れとして変わってきているのだと思う。『ミッドサマー』を観たときも作品自体に対する好悪よりも何かが違う、新しい、という印象が勝ったのだが今作についても同じ。先にいくつかの先行する作品に似ていると例を挙げはしたものの、それがさらにアップデートされていると思った。反面それが自分の求める映画像なのかというとよく判らない。
音楽のベンジャミン・オルフィッシュは生まれこそ79年だがあきらかに映画音楽を変えたと思う。

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