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『羊たちの沈黙』/革命的な視点の入れ換え(映画感想文)

「すると、ワトスン」といきなり口を開いた。「南アフリカの株に投資する気はないんだね?」
わたしはぎょっとして飛び上がりそうになった。いくらホームズの不思議な能力に慣れているとはいえ、自分の内心にある思いをこうもはっきりと読まれてしまうなんて。
「いったいどうしてそれを?」
ホームズは椅子の上でこちらに向き直った。煙の出ている試験管を手に、くぼんだ目を愉快そうに輝かせている。
(中略)
「いいかい、ワトスン。ひとつひとつは単純で、それぞれが前のものに基づいている一連の推理を組み立てていくことは、それほど難しくない」

(「踊る人形」アーサー・コナン・ドイル)

おなじみホームズは持ち物、身形、ちょっとしたクセからその人物がどんな職業についているのか、どれほどの身分のものなのか、そしていま何に思い悩んでいるかを看破する。観察力と洞察だ。それが推理に役に立つ。狂人と紙一重? そう、それは以前からよくいわれている。
この並外れた観察力と洞察は膨大な知識を下敷きにしている。必ずしもそれが良識的である必要はない。兇悪な殺人犯が同様の能力を持っていてもいい。
恐るべき連続殺人犯にこの能力を付与することを思いついたのは、トマス・ハリスの革命的発明だった。これまでも多くのミステリーにおいて、捜査側より明晰で、追うものを翻弄する犯人は描かれてきたが、ハンニバル・レクターの並外れた知性はその多くの先行者たちを凌駕する。なにより彼には品格が備わり、そして振る舞いが美しい。
もう何度目になるのか忘れるほどに観た『羊たちの沈黙』(91)をひさびさに鑑賞。

FBIの実修生であるクラリスがフィールドトレーニングをしていると教官が呼びに来る。上司となるクロフォードに面会し、彼女はある変わった任務を与えられる。
このくだりにおいて、われわれの視点は常にクラリスの外にある。物語というのはたいてい主人公と同じ視点を獲得し、主人公と同じ気持ちになり、同じ不安を抱えて同じ立ち位置で臨むように作られるが常なのだが、監督のジョナサン・デミは細心の注意を払い、われわれを常にスクリーンの外におく。人物たちは常にバストショットでカメラにむけて語り掛けるように話し、結果『羊たちの沈黙』はこけおどしの一切介入しない、あたかも事実を追ったドキュメンタリーのごとき作品として仕上がった。
ジョナサン・デミはトーキング・ヘッズのライブドキュメント『ストップ・メイキング・センス』で一躍名を知られるようになった人だ。対象にパワーやインパクトや情熱が備わっているなら過剰な演出は必要ない、作為的な演出が対象の魅力を殺すことがあると知っている。ただ的確に冷静に伝えるだけで十分と熟知しているのだ。
デミにその手法を徹底させるだけ、この物語には力がある。強固な芯がある。

あまたあるサイコホラーやサスペンスと『羊』が一線を画す理由はレクター博士の造形にある、というのが世間の一致した見方だ。
それもひとつだが、それだけではない。デミのこの撮り方こそが、圧倒的なリアリティと手触りを映画に与えそしてアカデミー賞をももたらしたのだ。
感情を排したこの手法は最後まで一貫し、われわれは主人公であるクラリスと重なることがないまま、ただ事件を追うことになる。まるで新聞記事だ。クラリスの内面に踏み込めるのは彼女がレクター博士のカウンセリングを受けるときだけ。そのカウンセリングの場面をわれわれは覗き見するようにクラリスの過去をも知っていく。凄いのは、クライマックスで凶悪な殺人犯と対峙したときでさえ、観客はクラリスではなく殺人犯の目線で物語を見ることになるのだ! 

ミステリーにおいて探偵は最終的には何もかもを見通す「神」の位置にいる。現実の人生では、すべての出来事に、秩序や“説明”が与えられることはない。理不尽な謎はそのまま放置されることも多いが、物語それもミステリー小説や映画においては最終的な決着を「神=探偵」がつけることになる。この「神=探偵」に異議を唱えた作家として知られているのはエラリイ・クイーンだが、その「神」の役割を犯人(悪)に与えた点でハリスは慧眼だった。この映画以降、人を殺す高い知性を備えた神が物語の世界を跋扈するようになる。

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