見出し画像

『プラトーン』/人のなかに、解放してはいけないものがある(映画感想文)

公開当時(86年)は「ベトナム戦争を知る者によって語られた生々しい戦争映画」という印象。これまでアメリカが語らなかった事実の暗部を当事者が語った作品といった位置づけだった。それはそれで間違いではないが、いまこうしてみると一面的な見方だった。
監督がそこまでの意図をしていたかどうか、…。あの当時のストーンはただ怒っていて、誰かに「見ろ、そして知れ。隠すな」と突き付けたかったのだと思う。
しかし作品が出来上がってみると、もっと普遍的なテーマがそこには浮かび上がってきていた。
「正当かどうか決定することができない」目的のもとで「価値観も人間性も異なる者が集められた」ときにいったい何が起こるのか、だ。普遍性がある。戦場という場所と軍隊という組織が人のある面をむき出しにするのだろう。ちなみに、大島渚の『戦場のメリークリスマス』は83年に公開、その原作とされるヴァン・デル・ポストの二つの小説は54年と63年だが、もとになっている事象は事実(実際の戦争)なので、どちらが先かを問うことはあまり意味がない。むしろ違った二つの戦争について異なる国の、異なる立場の人間が描いた作品を比較することの方が興味深い結果が得られると思う。

組織には長を据える。そうすることで、組織内での意見対立や価値観の分散を防ぎ、むかうベクトルをひとつに束ねることが可能になる。余分な考えの介入や疑心暗鬼は組織のパワーを分散させることになるので避けたい。くだらない(偽)民主主義や、くだらない個人の自由が持ち出されるのは鬱陶しく、ピント外れの不見識な意見の検討に時間を割くのは無駄だ。
もちろん全体がまだ教育的段階の途上にある場合、民度や教養を醸成しなければならない段階であるなら話は別だが、直面している火急の問題に対処しなければならない場面で、悠長なことをやっている暇はない。
決定権は、当該の事案にいちばん真剣にむきあい、最も多くの検討を覚悟を以てしているものが握ればいい。会社で何かを運営するとなれば、その目的や必然を理解し、長くそこで経験をしてきたものが担えばいいのだ。面目だけを保ちたい外野が口をはさむとろくなことにならない。だいたい、偉そうに何かいってくる第三者は物事が判っていない(がゆえに、専門家や当事者を差し置き何かいうという暴挙に恥知らずにも出られるわけだが)。
これはネットが普及して情報が得やすく、またものをいい易くなった、…といった安易な話ではなく、知識や世間の仕組みに対する理解のない人間が自己顕示を図り、意見をいう「ふり」をしたがるところに原因がある。これはある種の脳(か心)の病気だと思う。

『プラトーン』の主人公クリスは大学に通っていた白人でインテリだ。
同世代の黒人や貧困層の若者が戦場に送り出されているのに憤りを覚え大学を中退、志願してベトナムに来た。その点で彼は行動力があり、そして世間知らずだ。
冒頭で、新兵として隊の仲間から疎まれ莫迦にされるのだが、それは未熟な新兵と組むことになれば自分の死ぬ確率が高くなるからで、疎んじる側の言い分も判る。世間知らずの坊ちゃんが主義を貫こうとやってきたところで戦場では足手まといなのだ。
隊を統べる中尉もまた力不足で兵から見下されている。
隊のなかには軍人として容赦のないバーンズと、高い能力を持ちながらも善良な人としての心も持つエイリアスの二人がいて、彼らは中尉より戦場について知り、何かにつけ長けている。隊がある村に踏み込んだことから、この頼れる二人が明確に対立するようになっていく。
バーンズは、自分の国が戦争に勝利し自分も仲間も生き残るためには手段は選ばない。敵である可能性が少しでもあれば容赦なく殺すべきだという考えを持ち、子どもでも利用する。
エイリアスは、子どもや力のない者に銃をむけることを認めず、ルールにそって物事を運ぼうとする。彼のなかには「戦争を超越した価値のある美しいもの」が理念としてあるのだ。そこが、戦争は生きるか死ぬかしかなく、生きることを最優先に考えるバーンズとは異なる。
作品としてみれば当然(新兵であったクリスの視点で物語を眺めているからこそ、より)われわれはエイリアスに賛同し、人間的に完成した思考を彼に見るのだが、本当に正しいのは、はたしてどちらなのだろう?

エイリアスの生き様はキレイごとであり戦場では通用しない、自分や仲間を生かすためにはバーンズのように心を鬼にして活路を切り開かねばならないという意見にも一理ある。
全員がバーンズでは世界が殺伐としすぎる。民主主義は多くの意見を交換し極端な暴挙にブレーキをかける仕組みだ。しかしではわれわれは戦場においても意見を徹底して交換し合い、物事のいちいちに是非をつけていくべきなのだろうか。この場面ではエイリアスのいうとおり、あの案件についてはバーンズの指示に従おう、…と。
それはできない。戦場ではその間も物事は進行し停滞が死に繋がる。
こうした意見対立が起こった場合、スムーズに前に進ませるために優秀で絶対的な長が組織には必要なのだ。しかし、先に書いたようにこの隊の長は役に立たず対立はより深まっていく。

そしてこの構造(が孕む問題)は戦場における軍隊に限らない。この様は実はあらゆる組織や社会にも当てはまる。会社組織でもスポーツチームでも。
「人」として正しいことはきっとどこかにあって、われわれはまだそれを手には入れていないかもしれないが、「会社員」や「チームのリーダー」としては、常々その立場に相応しい正解を求め、そして下し、部下やメンバーに指示しているのだ。
だが、常にその意思決定の立場に就いているものが、他のものより優れているとは限らない。優れているの定義でさえ、不安定で測る位置により変化する。

バーンズとエイリアスの、二人のどちらが正しいのかを監督は考えさせたかったのだろうか。あるいは、どんな場面でも人はエイリアス的側面を失ってはならないということが伝えたかったのか
いやいや、用意されているのはそんなお行儀のいい結論ではない。
監督のオリバー・ストーンはベトナムで従軍し、そこで体験したことが映画の下地となっている。彼の以降の作品を見ると体制批判の主張がかち過ぎると思わなくもないが、芯が通っているのは戦争反対とたとえば原爆投下に対するアメリカの罪への糾弾だ。戦争を憎むことにはブレがない。あんな莫迦なことをもうさせてはならないという強い意志を感じる。
虫も殺せなかったような人間が、容赦なく人を撃てるようになるのは自分が死ぬかもしれないという恐怖からだ。容赦のない蛮行をはたらけるようになるのは相手が自分を殺そうとしているのではないかという疑心暗鬼からだ。常に死がすぐそばにあり極度の緊張を強いる異常な状況下では人は変わる。理性を失い他人の生命や尊厳をないがしろにするようになる。利己的になる。バーンズを鬼にしたのは戦争という状況であり、もともと鬼だったわけではないだろう。
人の奥底にはそういった要素があり、バーンズはもとから暴力的な人間だった、という仮定の反論があるかもしれないが、それを社会や規範や道徳といったもので抑え込んでいるのが正しい状態ではないのか。だとすれば常にわれわれは誰もが常軌を逸し利己的に力を行使するような場面を作らないように、平常な状態を協力して維持していくことが求められる。悪いのは人ではなく、人の心を変えてしまう状況であり、それを作り出すことだ。
何者かの意思決定がないか、あるいは脆弱で頼りないと、人が暴発し蛮行をはたらくようになる、…そんな社会は間違っている。
しかし、人は状況次第で鬼にもなるのだ。ストーンはきっとその場面を目の当たりにしたに違いない。戦争反対は、人間の不完全さを知るものゆえの、強い意見なのだと思う。お気楽に開戦のボタンに手を掛けるやつは、人間について不勉強過ぎる。

高校生の頃、この映画を簡単な善悪二元論に落としこんで理解していたが、いまは少しだけ違った見方ができる。
蛇足は承知で、ベトナムで米軍がとった行為をみると、アジア人に対するメンタリティの違いが暴力性を助長したのではないかとも思う。米軍のなかで何かにつけ黒人が差別される場面も作中では描かれているが、これは極限状態云々に限ったことではなく、日常社会の矛盾を持ち込み描いているのだろう。村でベトナム人にある嫌疑を追及してその表情から何も読み取れず過剰な暴力をはたらくのは、それとは別の次元の、怖れと無知だ。

民族性の違いが大きくないにせよ、映画を観ながら、やはりウクライナのことを想起した。ロシア軍が侵攻し市井の人々の日常を脅かす様が村を襲うアメリカ軍の小隊に重なる。何の権利があって彼らは人々の生活を。同じ人間なのに。戦争の異常さを現実と地続きなものとして感じる。なんともいえず嫌な気分になる。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?