私だって恋がしたい ~脳性麻痺の女の子のラブストーリー~ 第一章 早すぎた誕生
1
生と死の境が定かではない羊水の中に浮かんでいるまだまだ未熟な胎児は、目を閉じたまま自分の親指を吸っていた。胎児には直線に進んでいく時の感覚はなかった。ただ母親の心臓の鼓動の穏やかなリズムが無限に円環していた。
母親の胸を突き上げる「ああ、我が子を孕んでいるのだ」という喜びも、「異質なものを内部に抱えている」ことへのふいに訪れる破壊衝動も(若い母親はそれを無意識に押し込んでいたため、それはただ身体だけを通して悪阻という形を呈したのであるが)、脈打つ赤い血液となって胎児に流れ込んだ。
それらのすべてを胎児は前頭葉の目覚めなしに全身であるがままに感じていた。生と死の境界のない世界から、形ある、愛も憎しみもある世界への出発はもう間近に迫っていた。母親の鼓動が乱れ、子宮が胎児を圧迫するほど収縮する。
胎児は忽然として目を見開いた。と同時にその脳の中にも最初の光が薄暗いカンテラのように灯った。
カン!と鹿威しの竹筒が石を打ち付ける音がした。
それはまだ人間としてのいわゆる意識という定型を持つほどのものではなかったが、脳神経パターンにエマージェンシーを知らせるパルスが光って走り、胎児は目覚めた。
本能だけが時の早すぎることを知っていた。今、外界に放り出されるのは、人工衛星の中から暗黒の宇宙に投げ出され、命綱が切れ、果てしなき漆黒に吸い込まれてしまうのに似ている。
準備の整った船が慌てず騒がず、潮風を孕み、ゆっくりと港を出ていく穏やかな船出とは異なる。暗い産道に有無を言わせぬ力で押しつけられながら、胎児はパニックに陥った。あれほどの穏やかな羊水の漂いの中で、夢から覚めたとたん、まだ生を知らぬ胎児に、死が迫っていた。
ゆっくりと産道を回転しながら広い肩幅を出口の縦の亀裂に合わせられるように回転していく予定だった。だが、その準備が胎児に出来てはいなかった。微睡みはまだまだ続くはずで、準備の期間はほころびる蕾みのように保証されるはずだった。だが、その時が突然訪れたため、母胎と胎児の共同作業はリズムのずれを深めるばかりであった。
焦るほどに事態は混乱し、緩やかにたゆたっていたはずの臍の緒までが無用に首に絡みついた。使い方すら知らない手の指で胎児はそれを振りほどこうと首に手をやった。だが、水かきが消えたばかりのその手は羊水をかき回すばかりで、首に届くことすらなかった。
2
海に棲む魚にとっては大気は窒息死を意味する。胎児はその死の世界に頭の先を覗かせていた。わずかに生え始めた頭髪が血にまみれ、膣口の出口が開くたびに空気に触れてその頭頂だけが乾いた血糊に変化し始めている。
何度目かの収縮の果てに胎児はついに首を死の世界に突き出した。白いビニール手袋をはめた女性医師の手がその頭を鷲づかみにし、強引に引きずり出す。母親は我知らず遠吠えのような声を上げた。だがまだ未発達な肩の部分がずるりと抜け出すと、これまでの痛みを伴う長いいきみなど嘘のように胎児の体は血の海を滑るようにズルズルと瞬く間に引きずり出された。
胎児は観念して死を受け入れた。羊水の中に揺蕩う至福の生が終わりを告げて、死の世界に釣り上げられたことを受け入れる以外に彼女自身には何の選択肢もなかったのだ。彼女? そうあらかじめ超音波写真で予告されていたとおり、胎児の生はFEMALEであった。母親の女性ホルモンの影響で陰部は花が爛れたように外に剥き出しになり、女児であることを主張している。
医師の手は白いリネンの上で、首に巻き付いた臍の緒を急いでほどいた。解ききっても泣き出さない。ここでは肺呼吸をすることが新しい「しきたり」であることにまだ気がついていない。誕生をむしろ死と感受し、あきらめ果てたようにぐったりしている。その肺の中には飲み込んだ羊水が詰まっていてそれもまた新しい世界での「しきたり」を邪魔している。
医師は乱暴とも思える仕草で新生児を逆さづりにし、背中を叩いた。変化は起こらない。呼吸の途絶えているこの一分一秒がシリアスな意味を帯びていた。酸素欠乏によって、脳細胞は一刻の猶予もなく、崩壊し始める。
医師の新生児の背中を打つ手が徐々に激しくなる。もちろん打つことにもそれなりのリスクがあり、力任せというわけにはいかない。絶妙のバランスを探りながら、医師が懸命に新生児の背中を打つ。新しい世界での「目覚め」を呼びかけているのだ。
げぼっと新生児が液体を口から吐き出した。リネンの上にぬめった液体が染みになって広がる。一瞬の静寂。だが、次の瞬間にはか細い声で新生児は泣き出した。
「おお。よしよし」
言いながら医師は新生児を胸に抱く。左手で新生児を胸にかかえたまま、産湯に片手をつけて温度を確かめ、ゆっくりとかき回すと、新生児をつけ、血糊を洗い流す。湯につかりながら、新生児はこちら側の世界にやってきてから初めて、微かなアルカイックスマイルを浮かべた。
看護師がキャスターで運んできた保育器の蓋を開けた。医師はタオルでくるんで産湯をふきとった新生児を両手で神への捧げ物のように運ぶと、保育器の中にそっと横たえ、プラスチックの蓋を下ろした。シューという音と共に新鮮な酸素が保育器の中に満ち始める。
このように人の言葉で表現することが許されるならば、混沌とした無意識の知覚の中で、新生児はエデンの園は追い払われたものの、ここは即地獄というわけではないことを直感していた。気体としての酸素というまったく新しい安らぎが肺の中に満ち渡り、血流に乗ってゆっくりと全身を経巡る。
それはまもなく脳血流関門を越え、壊死し始めていた脳細胞に天上の賛美歌を届ける。
3
保育器の内部はほんの少しだけ子宮に似ていた。だがそれは真空の宇宙空間を漂流する棺桶のような小舟に過ぎなかった。その外部に適応できない、か弱い生き物に過ぎない新生児は、薄いプラスチック一枚隔てて押し寄せる真空の死の世界の広大さをひしひしと感じ取っていた。
それでもとりあえずこのカプセルの内部には酸素が満たされ、鼻に挿入された管からは栄養剤が流れ込んできた。保育器に設けられた腕を通すことのできる穴から侵入してきた母親の手によって初めて愛撫されたのは二四時間が経過した後であった。その情愛に満ちた温もりは、物理的ではないエネルギーの奔流として新生児の体を経巡った。
やがて外部から差し込まれた手に握られた哺乳瓶からミルクを飲むことが許可された。微かに甘い、生温かい液体が胃の腑を満たすと、臍の緒が切断されてから長い間見失っていた活力が体を目覚めさせた。本能的に哺乳瓶の乳首に吸い付く新生児の唇の力は、力強かった。また彼女はその哺乳瓶をつかんで離すまいと両手でつかんで握りしめようとした。
柔らかい乳房の弾力を生き物の性でまさぐり求めていたもみじのような手は硬質な容器の感触に失望した。それでもその手が哺乳瓶を握りしめようとする力は、霊長類が母親にぶらさがり、その母親が樹木から樹木へ鳥のようにジャンプしてもけっして胸から墜落することのないあの信じられないほどの握力と同じだった。
保育器室には漂流する宇宙船が工場のように並んでいて、その間のリノリウムの通路を白いナースシューズがひっきりなしに行き来していた。せわしなく小走りに通過するシューズは時折り床との摩擦でキュキュというせつない金切り声をあげた。
まだ名前のない新生児たちを看護師たちはカプセルの番号で認識し、宇宙船内部の温度や酸素濃度、小さな命の栄養状態を管理し、モニターしようとしていた。その担当者は短い引き継ぎのたびに機械的につぎつぎと入れ替わった。
こうして多忙を極め、昼夜入れ替わり続ける看護師たちのわずかな不注意が、いくつかの偶然の重複を見せることによって、その緊急事態は訪れた。
陸に上がったはずの両棲類がせっかく始めた肺呼吸。そのやっと新天地を発見した肺臓へ再びぶくぶくと水が流れ込んでくるような息苦しさが胎児を見舞った。小さな体は暗い海のそこへゆらゆらと沈んでいき、水面の上空の眩しさが急速に遠ざかっていく。不足する酸素にあえぐ脳細胞が壊死を始める。
ならんだ宇宙船の中、一本向こうの通路を通過していく、そのことには気づかない無頓着なエンジェルの白い影。新生児は、不可逆な道を転落し、深い海溝の亀裂の中を沈んでいく自らを光の方向に浮上させるためのどのような手段も自らは持ち合わせていなかった。
紫色に変色した顔色に気づいた何人目かの看護師が慌てて酸素濃度を調整し、医師に報告した時には、愛も罪もまだ知らない柔らかい脳はいくつかの回復不可能な境界線を越えていたのであった。
未熟児が保育器内の酸素濃度調整のミスによって発症していまった脳性麻痺。残念ではあるが、ありがちな運命が、名前も自意識もない生命体をあらかじめ鷲づかみにした。それは彼女が、沙織という美しい名前を得て、差別したりされたりしながら生きる人の仲間という悲しい長蛇の列に加わるよりも以前に、前もって決定されてしまった試練だった。
高まる酸素濃度の中で深い海の底から浮上しながら、彼女は、苦しい引きつりを再びアルカイックスマイルに変容させた。
目の大きな鼻筋の通った顔が浮かべたその笑みは、沙織が後に「身体障碍の女優」としてデビューする未来を先取りして、窓からの光の中で一瞬の光芒を放った。
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