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この世に投げ返されて(27) ~臨死体験と生きていることの奇跡~

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ダンスバリアフリーの活動を広く披露する機会には何度も参加しました。

大阪城野外音楽堂で行われた「つながらーと」という名前のイベント出演のことはよく覚えています。「つながらーと」自体が障碍のあるパフォーマーと「健常者」のパフォーマーが垣根を越えて同じイベントに参加して「つながろう」という趣旨のお祭りでした。
 私たちダンスバリアフリーは、フラッシュモブという形でパフォーマンスを開始しました。これは会場のあちらこちらに、普通に潜んでいる人たちが突然、演者になるというものです。観客として、障碍のある観客の介助者として、またイベントのスタッフとして、なにげなく存在していたその場所から、突然、パフォーマーに切り替わるのです。
 会場中のあちらこちらから、いきなり立ち上がったパフォーマーたち。その時点で既にパフォーマンスは始まっています。最初のうち、誰がパフォーマーなのかはまだ判然としていません。

が、「坊さんが屁をこいた」というステージからの子どものMCに合わせて動いては止まる人々がいることに人々は気づき始めます。

私たちはいつでもどこにでも潜んでいます。街の中で、職場で、学校で、公園で、自分のすぐ隣に、障碍があって困難と闘っている人、それを援助している人、何も気づかず自分に没頭している人などなどが混在して、出会うことなく過ごしているのです。
 フラッシュモブという開始の仕方がそれを可視化します。

私自身はというと、普通に舞台袖に他のふたりの車椅子のメンバーと共に待機していました。ステージに登るのが困難だから初めから袖にいるというあり方をこの年には越えられなかったのです。(しかし、翌年には会場から現れた車椅子ユーザーが、他のメンバーの背中の上を後転してステージに上がるという新しい登場方法も「開発」されました。)
 私は他の二人の車椅子ユーザーと少し違っているところがありました。それは、手を繋いで安心感を与えてもらえると少し歩けるという点でした。そこで私だけは、車椅子をあらかじめ所定の位置にセッティングして、メンバーに手を繋いでもらって舞台袖から現れる形を取りました。「坊さんが屁をこいた」に合わせて歩いては立ち止まり、立ち止まっては歩きながら、自分の車椅子にたどり着くのです。

しかし、この時、思わぬ問題が生じました。ダンス指導者のくわっちが血相を変えて私のところにやって来ました。
 「車椅子の位置が危ない。舞台の縁、ぎりぎりすぎる」

「え、ガイドヘルパーさんにビニールテープに車輪を合わせてセッティングしてくれと頼んだんだけど」

「あの人、何もわかってないよ」

「テープの位置に合わせて置きましたって意気揚々と引き上げてきたけど」

「たぶん、前輪に合わせるはずのマークを後輪に合わせたんだわ。でも、普通に見たら、ここに置けばステージ縁に近くて危険ってわかるはず」

「ああ、たぶん、あの人はわからない」

この問題について解説します。業界ではわかっている人ならわかっていることです。実はガイドヘルプなどの障碍福祉の仕事をしている援助者の中には、自らが企業等に適応できなかった発達障碍などの人も多いのです。もちろん全員ではありませんから偏見を持たないでほしいのですが、かなり混じっていることもまた事実です。
 今回のガイドヘルパーとの過去との付き合いから私は、彼が言われたことを言われたとおりにするけど、自分で考えて判断するということが殆どできない人とわかっていました。しかし、私自身が知的障碍などがなく、自己判断ができる人間だったので、事業所は彼をしばしば私のヘルパーに回しました。自己判断ができない重複障碍の人のヘルパーを依頼するとどちらも判断を誤って、余計に危険な事態に到るからです。
 ふだんは私が彼のすぐそばの車椅子上にいますから、違うと思った瞬間に指示を出し、事前に難を避けることができていました。しかし、この時は珍しく車椅子を設置してきてもらうというイレギュラーな依頼をしたためにこのような予想外の齟齬が起きました。
 普段から私は彼に対して、「どちらがどちらを援助しているのか、わからない」と感じていました。言い過ぎには注意を払いつつ、匿名だからこそ、本音を語ります。他の仕事が不可能に近い彼を雇うことで彼の生活を支援する役割を、自己判断のできる身体障碍者である私がしているという側面があると感じていました。

しかし、互いが生き難さを抱えて生きる者同士であってみれば、それは人間社会の中で普通の持ちつ持たれつの一環でもあります。それが社会の福祉に関するシステムによって、一方的に援助する方とされる方に分類されてしまっているわけですが、実は現実というのはそのような単純なものではないのです。
 この機会に無数の例の中からもうひとつだけ事例を述べましょう。北海道のあまり車椅子に従業員が慣れていないJR駅での出来事でした。私はスロープだけ車両に架けてもらったら、電動車椅子を自分で操作して乗車すると言いました。大阪などの都会ではいつも当たり前のようにそうしていたのです。

しかし、駅員はそれでは危険なので私の手で介助して乗せると言いました。慣れてないとその方が危険なので、自分で乗ると私は言いました。しかし、彼は、規則なので私の手で乗せないと私が後で上司に怒られると言いました。
 それは企業側やこの職員の都合であって、私の都合ではありません。援助を必要としているのは私側であって、この人の職業が成り立つようにするために私が存在するわけではありません。しかし、仕方なく私は「では頼む」と言って、電動車椅子のエンジンブレーキを外し、手動に切り替えました。
 列車が近づいてきました。私は彼が車椅子を操作できるようにさらに車輪のブレーキを外しました。
 ところがです。その時、彼はホーム上のマイクでの放送であったか、他の仕事のために私の車椅子から手を離したのです。

電動車椅子が手動に切り替わっているときには、介助者は絶対に車椅子から手を放してはいけません。なぜなら手動状態だとエンジンブレーキがかかってません。そのため少しでも地面が傾斜していると車椅子は重力で滑り始めるのです。特に電車のホームなどでは、線路に転落する危険などがあります。

私は咄嗟に「放すな」と言いながらも、車輪のブレーキをかけ、続いて手動を電動に切り替えてエンジンブレーキも作動させました。列車がホームに滑り込んできました。大変危険な場面でした。もし、自分で咄嗟に判断できない障碍者だったら、大きな人身事故に繋がっていた可能性があります。

この場合も私は彼が会社の規則に従って仕事をしたということに協力しようとして、自分が彼を援助し、危ない目に合ったのです。
  私は「命に関わることだから、あなたやあなたの会社のマニュアルに合わせることは二度とできない」と言って彼のそれ以上の介助を拒否せざるを得ませんでした。

社会において人は常に自分の立ち位置から互いを援助しています。その視点は非常に重要です。「健常者」が「障碍者」を援助するシステムで社会が成り立っているという考え方は私の少ない経験の中からだけでも、何度も何度も逆転しています。これは人間関係の成り立ちについて重要な真実を示唆していると思っています。

さて、ダンスバリアフリーのステージの話に戻ると、車椅子の位置はチームのメンバーによって修正されました。フラッシュモブが始まると、私はメンバーのひとりに手を引かれてステージに姿を現しました。ところが、「坊さんが屁をこいた」というMCのたびに立ち止まるという歩き方は私には普通に歩くよりもずっと困難でした。なぜなら、それは私の脳がだんだんリズムをつかみ、波に乗って歩くことを何度も何度も寸断したからです。私は立ち止まり、また最初から脳に「歩くよ」という指令を出し、何度でも一から歩くという動作をぎこちなく始める必要がありました。
 その時、私の目にステージ上に這っていた音源のための黒いコードが飛び込みました。それは私の身体能力からして踏まないで越えることに無理はないはずでした。しかし、薄い灰色に近いステージの地面に真っ黒なコードが分断するように渡っているその光景は、私の高次脳機能障碍の脳には、そこで世界が二つに分断されているようにさえ見えたのです。この分断線は練習の時には存在しなかったものです。それが全く新しい要素として突然、私にどれほどのパニックを引き起こすかは誰にも予測不可能なものだったのです。

何度も体を停止し、再び足を運んでリズムに乗る前にまた停止する。それを繰り返すうちにいよいよ黒いコードによる「世界の分割線」は近づいてきました。以前に精神病院の受付前で会ったこのある青年を思い出します。彼は何もない床の上にまるで越えてはいけない魔法陣でも描いてあるかのように、そこまで来ると地面を見つめて立ち止まり、引き返していきます。また思い直したようにそこまでやってきて、ぴったり同じ場所で止まって、何度かその前で別の角度にステップを踏み出し、それから引き返していきます。私には何も見えなかったけれども、彼にはそこに何かが見えていたのです。
 私自身、とても学校勤務が嫌で鬱状態になっていたときには、校門に近づくとそこに見えない壁があって、そこをえいっと越えるときに確かに物理的な壁を破るような抵抗を体感したのも思い出しました。人は脳の生き物であり、世界は脳にとってどうであるのかによって、その有り様を決定づけられるのです。

障碍=バリアとは何でしょうか。それはそれぞれの生きる世界においてその人自身にとって壁となる、ありとあらゆる限界を意味しているのです。そして無碍=バリアフリーとは何でしょうか。私の経験した臨死体験の世界は、どのような意味においても何の壁もない融通無碍なる世界でした。しかし、生きている限りこの娑婆には完全な無碍というのはありません。ただ、人と人が援助しあう関係として関わり合うとき、あらゆる障碍は乗り越えられ、無碍なる世界がそこに開かれるということがままありうるのです。
 私は黒いコードの前で立ち止まりました。援助者の手を握っている手に自然に力がこもり、汗が滲みます。ほかの人にとっては何でもないただの音源用のシールド。しかし、高次脳機能障碍の私にとっては、まるで世界を二つに分断しているように見えるその壁。しかし、その壁の向こうに集合しなければ、私は仲間と一緒に踊ることができないのです。

私は援助者の手を握り、震える足を持ち上げます。「坊さんが屁をこいた」。片足が限界を突破しました。ストップ。次の回が壁を超えるときです。「坊さんが屁をこいた」。

超えた!

仲間と踊るために私はその世界を分割している線を、痙攣する足で乗り越えたのです。それがどんなに大変なことだったかは、誰に知られることもなくても。
 SHINGO☆西成が登場し、バリアフリーについてMCし、ラップを始めます。NHKのバリバラという番組のクルーが来ていて、カメラが回り始めます。私は仲間と共に踊り始めます。

皆が自分のそれぞれのバリアを互いを支えにして超え、踊っています。目の見えない彼は仲間の気配を頼りに自分の位置を定めて踊っています。

大きな音が苦手な精神障碍の彼女は防音のためのヘッドフォンを装着して、それでも漏れて入ってくる音が怖くて涙を流しながら、でも、仲間と一緒に踊りたいから踊っているのです。
 これがダンスバリアフリーです。この障碍だらけの娑婆において、人と人が関わり合いながら創りだす融通無碍なる踊りの万華鏡なのです。

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