『蝶を放つ』レビュー紹介

2014年12月16日 のfacebookより

 中国人で日本で大学教授をされているLさんから、『蝶を放つ』の感想をメッセージでいただきましたので、許可を得て掲載します。
 第一印象は、当たり前のことだけど、男性的な感性に基づく作品だということでした。
 最初は、なぜ「僕と友子がああならなければならなかったのか」、性の描写がこの話でどのような意味があるのか、複雑な色合いのエネルギーを行間から感じ取ることはできたが、それらの描写がこの話に登場する理由を言葉で整理して理解することはできなかった。父親の愛人であった友子さんになぜ「僕」が欲望を抱くのか、男性的な感性からでないと分かりにくいのかなと思いました。
 「人は、取り返しの付かない場所まで来て振り返ったときに初めて、何もかもがただ一度きりの出来事だったと気がつく」という言葉に読者としてはっとさせられ、動揺する分、「一回だけ」といって友子さんと行為に及ぶ「僕」の気持ちは、感情移入しにくいものがありました。
 しかし、読み終わって、話が自分に中で沈澱していくにつれて、徐々に「僕」の行為に納得するようになってきました。
 うまく言えないのですが、友子さんという存在は、「僕」にとって「女」ではなかったと思うのです。
 「命のトランジスタ」とでもいうべきか・・・。「僕」と父親は、家族としてのつながり、付き合いをしていたが、「命同士」の付き合い方はなかったと思います。しかし、父親の死によって、「僕」は命としての父親とつながりを持ちたい、と強く願うようになった。
 考えてみれば、生物は「命同士」の付き合いをして、命として世界とつながっている。しかし人間は、「命」として存在するには、邪魔なものが多すぎる。社会的に生きるためには、我々は社会的に付与された役割を演じることによってしか、他者とつながることができない。「僕」が感じている根本的な不自由さはそこにあると思う。「僕」がすべての細胞に閉じ込められていた蝶を放ちたいと激しく求めるのは、その不自由さへの本能的な抵抗があるからだと思う。
 そして父親の死を機に、命としての父親がどんなものだったのか、「僕」が知りたくなる。友子さんと一回だけ、最も動物的なつながりを持ったのは、友子さんを媒介に、父親と息子ではなく、命と命という関係を、父親と結ぶことができるからなのかな、と思いました。
 『蝶を放つ』が命について描いた小説なのは、父親の死を巡るストーリーだからではなく、「命同士のつながり方」を表現したからだと思う。それは非常に動物的で、赤裸々で、そしてなにもかもか、一回きりのつながり方。だからこそエネルギッシュで活力に満ちている。 「すべてを愛する能力」のある友子さんは、人間の社会的な仮面を一瞬のうちに剥がし、「命」に戻してあげる能力の持ち主なんだろうなと。だから、「僕」と友子さんの行為は必要不可欠でした。
 だからこそ、『蝶を放つ』は、命を書いたお話になったんだと、いまなら納得しています。

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