念仏は制作しない人々の芸術である

祈りは制作しない人々の芸術である
というリルケの言葉を「フィレンツェだより」に見つけたのは、
学生時代だった。
親鸞の書いたものなどを読むのを学業にしていた私は、
念仏は制作しない人々の芸術である
と読み替えた。

念仏もうさんとおもいたつ心の起こるとき、完全に解放されるというのは、二種深信のことを言っているという卒論を書いた。
すなわち、自我の力で自我を解放するのは絶対不可能だと思い知ったとき、限りなきはたらきに貫かれゆだねきる。
それが、念仏もうさんとおもいたつ心であり、それが起こったら、あとは限りなきはたらきのままに生きて死ぬだけだ。
念仏もいらないじゃないかというと、念仏はそれに気付かされたことへの報恩感謝だというのが定説のようだった。
私の先生たちはそう言っていた。

私は、今ここで、限りなきはたらきをどのようにこの心身に感じ、貫かれ、自分が消えたのかを、毎回異なる意匠で表現するのが、詩だと思った。
その創造を続ける限り、念仏はいらないと思った。
念仏は制作しない人々の芸術である
と思った。

雨あがり脳に染み入る蝉の声

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