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AMITAの観た夢 (1)~(7)

 思うところあって、小説「光る風」は大幅な改稿を加えることにしました。仮題も「AMITAの観た夢」に変更します。自分で後に比較できるように「光る風」の下書きは残し、マガジン「光る風」の続きに「AMITAの観た夢」下書きを連載していきます。

(1)

 朝から薄曇りだった野外音楽堂の空が、にわかに暗くなり、風も強くなってきた。小回りの効く小さな電動車椅子の上から、光一は空を仰いだ。空の奥深くから、雨粒が落ちてきて、手応えを持って頬を打ち始めた。
 本格的に降り出すかもしれない。
 光一は体をねじって、車椅子の後ろに掛けてあった赤いリュックサックのファスナーを開いた。
 コンビニでもらった小さなビニール袋の余りを取り出す。それを右の肘掛けの前の推進レバーに被せ、コントローラー全体をおおった。
 電動車椅子はパソコンと同じだと考えなければならない。雨に打たれて故障した場合は、保障は効かない。
 業者から何度もそう言い聞かされていた。しかし、雨が降れば外出できないのなら、障碍者差別解消法に悖る。電動車椅子に防水機能がないなら、外出する自分ではなく、電動車椅子が悪い。
 それが高次脳機能障碍も併発している光一の理屈だった。
 とはいえ、最も精密機器が集中しているのではないかと勝手に考えたコントローラーの部分に、雨から守るためにビニール袋を被せるのは、光一の習慣の一つだった。
 ステージは屋根に覆われており、ミュージシャンは歌いつづける。雨に負けじとドラムスは走り、ボーカリストは絶叫する。
 絶叫の中にも、様々な壁と闘って生きるはみ出しものの心情が歌いこまれたこの歌が、光一は好きだった。
 こうしてインディーズのミュージシャンが集まる野外フェスをしばしば訪れるようになったのは、電動車椅子に乗るようになってからだった。不自由になった体と引き換えに、学校の教員の仕事を辞めた彼はあり余る自由を得たのだ。
 彼は、半透明のビニール袋の中の黒いレバーを倒し、車椅子を前進させた。石でできたステージぎりぎりにぶつかると、ステージと車椅子に囲まれた小さな空間ができた。
 光一はその空間に立ち上がった。心室細動に伴う低酸素脳症後遺症で転倒しやすくなった彼だったが、首から下には器質的な障碍がなかった。いざというとき後ろの車椅子に倒れこめばよいという空間を作りだすことで、立ち上がることができた。
 彼はその狭い空間を踏みしめながら、体を揺らした。踵をあげステップを踏むとバランスを崩しすぐに転倒する。が、両足を地面に踏みしめている限りは、腰を振り、上半身を揺らし、両手を天に振り上げることができた。
 音楽を聞いていると、自分の歩んできた人生の様々な結節点が脈絡もなく脳内に明滅する。時に笑いがこみ上げ、時に涙がこぼれる。
 だが、自分はまだ生きてこの世の光を浴び、雨に打たれている。
 あの時、心室細動でライブ会場で卒倒し、救急車のAEDで心拍を再生するまで一三分もの間、心肺停止という事実上の死を経験した自分は、死の淵から帰って来て、踊っている。
 そのこと自体が奇跡であり、歓びも悲しみも、それを感じられるということが奇跡の一部なのだ。
 狂ったように頭を振り回すダンスは、若い頃から、インドの瞑想の師匠のアシュラムで繰り返してきたフリースタイルだ。
 自らと共に世界全体が搖れ、目を開けても閉じても、ぶれまくった画面が、墨絵の中の川のように流れ続ける。
 歓びも悲しみもあふれた尻から吹き流される。
 一陣の突風が舞台右袖から吹いて、光一のうなじの雨と汗の混じった光の粒を吹き飛ばした。
 その時、車椅子のコントローラーに被せてあったビニール袋が、パタパタと風にはためくのを、光一は目の片隅に捉えていた。
 やがてビニール袋は風を孕んで膨らむと、ふわりと宙に舞い上がった。
 あっと行方を追う視線の中、ふわりと浮き上がったそれはすぐに地面に落ち、座席のないステージ前の地面を左袖に滑っていった。
 最前列の座席を、ひとりの女性が立ち上がり、風船を追って駆け出した。
見知らぬ美しい女性だった。

(2)

少し前かがみの姿勢で、女性は小走りに白いビニール袋を追いかけた。追いつきそうになって手を伸ばすと、意地悪な風がまた袋を走らせる。
 何度か手を伸ばした末にやっと女性は袋をつかんで、かがめていた腰を伸ばして光一の方を振り向いた。
 四十代前半だろうか。切れ長の、強い目をした女性だった。
 彼女はビニール袋を持って、光一の車椅子に近づいてくると、それをコントローラーに被せてくれた。
「ありがとう」
 目を細めて光一は言った。電動車椅子に乗るようになってから、色々な人に小さな援助を受けることが多くなった。そんな時、彼は「すみません」という言葉を使わず、なるべく「ありがとう」という言葉を使うようにしていた。
 風と小雨は収まる気配はなく、また袋ははためいた。
「また飛びそうやんねえ」
 女性は言った。光一は袋の持ち手を結びつけて固定しようとした。しかし、そのビニール袋は小さすぎて、結び目がしっかりと届かなった。
「ちょっと待っててな」
 そう言うと女性は荷物を置いたままの、最前列の座席に戻っていった。
ぞんざいな大阪弁だったが、それが却って心地よかった。
 しばらく鞄を弄っていた女性は、まもなく満足そうに笑むと僕の方に引き返してきた。
 手には何の変哲もない輪ゴムを持っていて、それをビニール袋に二重三重にかけると、コントローラーのカバーは安定した。
「ええ、アイディアやな」
 光一は女性の顔を見た。
「ありあわせのもので、工夫するんは、ええことやな」とも言った。
 雨の日は外出すると、修理に保障が効きませんと注意ばかりする業者との懸隔は大きい気がした。
 ミュージシャンが転換する際、楽器の撤収と新たなセッティングにしばらく時間がかかる。
 光一はこの間にトイレに行こうと車椅子を走らせた。彼の車椅子は最高時速六キロメートル。それが電動車椅子が歩行者と認められるための限界で、それ以上のスピードが出るものは道路交通法上、軽車両と見なされる。
 舞台袖のやや後方にあるトイレに急いで向かう。と、その光一の車椅子が、思いもかけぬ場所で大きくバウンドした。
 後ろにかけたリュックサックに重量のあるバッテリーが入っていたせいもあり、車椅子のバランスが大きく後ろに傾いた。
 光一は慌てて前かがみになる。が、重心移動は間に合わなかった。
彼は車椅子ごと後ろにひっくり返り、コンクリートでしこたま頭を打った。会場のざわめきが、ゆらめきながら遠ざかってゆく。
 仰向けにゆっくりと海の底に沈んでいくようだった。
 眩しい海面の揺れる波紋が遠ざかっていく。

(3)

そういえば去年の音楽フェスでは、トイレに向かう上り坂の通路にはめてあるハンドホール脇に水たまりができていた。
コンクリートの塗り込みに不均衡があって、へこみができ、水が溜まりやすくなっていたのだ。
車椅子が転倒した箇所を後に見に行ってわかったことなのだが、水溜まりができるのを防ぐためにセメントでへこみを埋める簡単な工事が、このかんに行われたいた。
ところが今度はそのセメントの塗りがやや過剰で小さな山に盛り上がっていたのだ。これで水は溜まらなくなったし、そんなかすかな地面の起伏など誰も気にも留めない。
ところが車椅子の前輪はそこで大きくバウンドし、背後の荷物で重心が後ろに傾いていた車椅子はバランスを崩してひっくり返ったのだった。
こんなことが起こることを予想することは、通常の注意力や想像力ではとても困難である。
幸い、後頭部の打ちどころや衝撃はたいしたことはなかったようだ。
光一自身は、ゆっくりと海の底に沈んでまた浮かび上がってくるまでに一時間は要したように感じたのだったが、
「僕はどのくらい気を失ってましたか?」という問いに、目の前の唇は
「担架で医務室に運ばれてベッドに寝かされたらすぐ目を開けたよ。三分ぐらいかな」と答えるのだった。
光一の顔を覗き込んでいたのは、先ほどビニール袋を追いかけて、輪ゴムでコントローラーに留めてくれた女性だった。
他に知り合いと一緒には来ていない光一の見守りを買って出てくれたようだった。
「重ね重ねすみません」光一は彼女の瞳を覗いて言った。
「水くさいこと、言うたらあかん」
そういう彼女の前で、光一は体を起こしてベッドに座りなおそうとしたが、両手を胸の前にあげて「撃つな」というような姿勢の「気」に押しとどめられた。
「まだ、動いたらあかん。安静にしとき」
「あっ、うん」
気さくなこの女性に光一もだんだん打ち解けていく。いっそ、甘えてしまえと思わせるオーラがこの女性にはあった。
「僕は沖田。沖田光一っていうねん」
「私はキム。キムソラ」
「・・・在日韓国人?」
「そやねん。京都の朝鮮学校卒やで」
「映画『パッチギ』の舞台になったとこ?」
「そう、よう知ってんな」
「大阪の生野区の公立高校の教員をしていたことがあって・・・在日の生徒がいっぱいいて・・・」
ひとしきり韓国・朝鮮の話題に花が咲いた。そのうち、生野区の「子どもの家」の話になった。
「逆統合教育で有名やね」
「そう、障碍のある子どもたちのためにモンテッソーリ教育をしてたら、楽しい幼稚園やということで、特に障碍のない子もたくさん入園してきて・・・・」
「あそこに一時期勤めていたキムミエさんって知ってる?」
光一は古い友人の名前を口にした。
「えっ? ミエちゃん知ってるの? 私、親友やで」
「うん。僕も古い友達。一番、濃かった時期は、小泉訪朝後の騒ぎのときで。あのとき、ほら、拉致問題が明るみに出て、在日の人への風当たりがきつうなって、大阪でも朝鮮学校の女生徒のチマチョゴリが切られるっていう事件が何件も起こって」
「うんうん」
「あのときな、ミエちゃんが自分のブログに、心ない人や、マスコミの姿勢への抗議文を書いたら、ネトウヨがわっと押し寄せて炎上してなあ・・・」
「あれ、リアルタイムで知ってたの?」
「ブログは一日十万アクセスとかですぐパンクして、舞台は2CHに移って、あれ、何枚、板立った? 連日連夜チャット状態で二〇枚は越えたよね。毎晩、朦朧として書き込み続けた。すごかったなあ」
安静にと言ったばかりなのに、共通する話題で話が弾み続けた。

(4)

世界中の海は繋がっていて底なしである。電脳の海も同じだ。潜っていくと見慣れた魚たちの姿は徐々に少なくなり、無数のプランクトンの吹雪の中を、異形の生き物たちが撥ねまわり、揺れ踊り、這いずりまわっている。
 ここにはもう太陽の光は届かない。提灯鮟鱇の灯す幽かな光が徘徊してはいるものの、照らし出される部分はあまりにも限定的だ。周囲には漆黒の闇がどこまでも深く広がっている。
 そんな海の底から浮かび上がってきたあぶくは、海面に近づくに連れて「ことば」というおなじみの外観を身につけようともがく。
 「ことば」は何者かの生きた脳味噌を経由しなければ、ひとつひとつ形をとることも、一連なりの数珠に紡がれることもない。
 宇宙からやってきた魂が子宮を選ぶように、「ことば」は脳を選ぶ。脳神経回路は指先を器用に操作して、パーソナルコンピューターのキーボードを凄まじいスピードで叩く。
 インターネット上の掲示板が文字を表示する。誰かの思考の振りをして。痛みや呻きから出る声は、愛に昇華されるよりも何倍も速く、液晶画面を埋め尽くす。
 個々の痛みや呻きは、人々が織りなす複雑な社会や、アメーバだった頃からの歴史に繋がっている。
「そういえばあの時に・・・」
 キムソラが光一の琥珀色の瞳を覗き込んだ。
「コーイチって名乗ってた日本人が何百人のネトウヨを相手に殆どひとりでミエちゃんを擁護する論陣を張ってたけど・・・あれって、もしかして?」
「そやで。僕やで」
「えっ! 今、目の前にいるこのコーイチさんなの?」
「うん。まあ。ただ複数のハンドルネーム、使ってたけどな。色々な角度から言いたいこと、あって。それにそのうち、コーイチの偽物が現れて、ほんま、わけわからんようになってきたわ」
「こんなとこで会うやなんて。あの時はありがとう」
キムソラはそこで不自然に目をそらせ、遠くを見て、しばらく何かを考えていた。
「・・・・ミエちゃんは三年前に亡くなったの」
おもむろに口を開くとキムソラは目を潤ませた。
「え、病気? 事故? それとも・・・自殺?」
彼女は光一のベッドから顔を逸らして嗚咽を抑えていた。医務室の壁時計の時を刻む音が急に大きくなった。結局、彼女はその問いには応えなかった。「電脳空間って不思議やな。昼間は仕事しながら、毎晩、未明まで張り付いて文字打ってたら、頭がぐちゃぐちゃになって、そのうち、どれが自分の書き込みか、わからんようになってくんねん。自分の複数のハンドルネームと、コーイチの偽物。雲霞みたいに湧いてくるネトウヨの言葉。とうとう、それまでほんまは同じ無意識の海の底から昇ってくるあぶくのように思えてきて・・・」

ベッドサイドのキムソラと話し込んだ光一はその日、彼女とFACEBOOKのアドレスを交換した。

(5)

FACEBOOKは交換したものの、実は光一は殆どSNSを触わる習慣がなかった。
キムソラとはメッセンジャーでいつでも連絡できる状態ではあったが、どちらから連絡することもなく月日が流れた。
突然吹いた風、思わぬ転倒、医務室での会話でわかったミエを介した機縁。あの時は深い縁で結ばれているのかと思った。
だが、後には何も続かない一期一会の出会いは人生にあふれかえっている。無数の扉が開いては閉じていく中をジェットコースターは疾走していく。それしかないし、それでいいと光一は考えていた。

六年前、光一は突然襲った心室細動によって心肺停止した。医者から聞かされた心肺停止時間は一三分間。普通ならその死亡しているか、少なくとも植物人間になっているはずの時間である。
奇跡的にも光一は一〇日後に意識を回復した。その後驚くべき回復を見せたが、低酸素脳症後遺症で歩行が困難で転倒しやすいという障碍が残った。
光一は今一度、あの時の一連の出来事に思いを馳せた。

 光一は野外のライブ会場で突然の心室細動に見舞われて倒れたらしい。「らしい」と曖昧な言い方が相応しいのは、光一は昏倒した際のショックで、その日の朝からの記憶を殆ど失っているからだ。
今だにその時間の空白は埋められていない。
覚えている限りの最後の映像は、自宅から最寄り駅に向かう途中、横断歩道を渡ろうとしていた外国人の親子だ。白人の若い父親と、小学校低学年に見える息子。学校の教員をしていた光一は、毎朝出勤するとき彼らとすれ違い、日本語で「おはようございます」と挨拶を交わしていた。朝の光の中でその二人を見たのもそれが最後だ。
そこからの記憶が戻らない。駅で切符を買い、電車に乗り、ライブ会場まで移動して、当日券を買って入場したはずだ。その一切を思い出さない。人生の中にぽっかりと空白が空いているような不可思議な感覚だ。医者には、昏倒とそれに次ぐ意識不明の後には、その前の記憶がざっくりと戻らないことはよくあることだと説明された。
だから、ここからは光一にとって「予測による回想」に過ぎないのだが、彼は習慣どおりに、できる限り前列に出て踊っていたに違いない。座席指定のない会場ではいつもそのようにするからだ。
そんな記憶すら戻らない一方、光一には、自分が倒れた瞬間の映像が斜め上空から鮮明に見えるのだった。
アニメで頭の周辺に蝶が舞い、くるくると頭を回転させてばたりと倒れる人の姿が描写されることがある。ちょうどそのように光一は頭頂で数回、空中に輪を描いた。そして膝の力を失ってくにゃりとその場にへたりこみ、そのまま仰向けに横たわったのだ。
瞳孔が散大している。
瞳の奥、網膜のスクリーンに遠い空を流れる雲が映っている。
会場にもAED(自動体外式除細動器)はあったはずである。だが、スタッフも含め、とっさにそれを使おうとする人はいなかったようだ。
誰かが救急車を呼んだ。救急隊員が到着した時は、光一は心肺停止状態だった。心室細動を起こした心臓の状態を正確に言うと、心筋が微細に振動していて、血流を送り出すための正常な心拍を打っていない。身体に血の巡らない、事実上の心停止である。
この時は、それに伴い、肺の動きも止まっており、それを以て心肺停止という。医療の発達していない時代なら、「死」に等しい。
後に医者に受けた説明によると、その心肺停止時間は推定で十三分間だったという。通常であれば、脳細胞が再帰不能なまでに破壊され、意識を取り戻さないまま彼岸に追いやられるはずの容態だった。
到着した救急隊員はすぐにAEDを光一に装着した。一回目の電気ショックで光一の心臓は微細な痙攣を止めた。そして元通りの心拍を打ち始めた。血管を血流が流れ通う。体の隅々の毛細血管が膨らみ、青ざめた身体が生気を取り戻す。と同時に脳の中にも血液が通い始める。脳細胞の一部は既に死滅してしまっていた。だが、辛うじて生き残り、再びの血の流れを渇望していた細胞は、染みわたる酸素を貪り始めた。
停止したままの肺のために救急隊員が人工呼吸器を繋いだ。血液に酸素が満ち、蘇ったばかりの心臓が豊かな酸素濃度の血液を全身に運ぶ。
 光一を乗せた担架がストレッチャーに乗せられ、さらに救急車の後部に吸い込まれていく。救急隊員は容態に沿って、病院に電話し、受け入れを出しする。幸い、比較的近隣の循環器科が充実した病院がすぐに受け入れを認めた。意識を失ったままの光一の体はそこへと搬送されていった。

人工呼吸器に繋がれたまま、光一の意識不明の状態は十日間続いた。
見舞いに訪れた別居中の妻、息子や娘、医者から「命の保証はない。意識の回復しないまま臨終を迎える可能性は高い」という説明を受けていた。

(6)

光一の家族はひとつの決断を下す必要に迫られていた。彼は人工呼吸器を口から挿入されていた。しかし、この状態は肺炎などの感染症を起こしやすい状態であった。
感染症が生じるとその分、さらに寿命が縮まる。
「気道切開して喉頭から人工呼吸器につなげば、感染症の確率は減少します。行いますか?」
医者は家族に判断を委ねた。その判断にはひとつの重大な意味が孕まれていた。より精密な医療機器によって安定した状態に置き、意識不明の植物状態の続くことを覚悟してでも、延命を優先するのか。家族はそれを問われていたのである。
だが、その判断の期限の迫った十日目に、光一の体はICU(集中治療室)の上で撥ねるように痙攣し始めた。
びっくりした光一の息子が看護師に報告に行った。駆け付けた看護師は「意識を回復する兆候です」と言った。
生命のないボディが命のエネルギーを吹き込まれるとき、エネルギーの奔流と物質的身体の限界がちょうど調和するまでの間、身体は痙攣するしかない。
そういうものであることはフランケンシュタインの蘇りを初めとする数多くの描写に、多くのアーティストによって直観的に写し取られている。
 その言葉どおり、ほどなく光一は朦朧とした意識の中で瞼を開いた。光一はそこが病院のICUであることを二三歳になる息子に告げられた。
「そうか」
そう言ったつもりだったが、光一の発声は殆ど言葉になっておらず、その日に関して言えば、実は殆ど聞き取れるものではなかったと後で息子に聞くことになる。
しかし、光一の脳裡には奇妙なヴィジョンが残っていた。光一はそれを懸命に言葉に置き換えようと、口を開いては素っ頓狂な声を喚げるのだった。

 ICUで意識を回復して間もなくのころ、高校時代の親友の博史が光一を訪ねてきた。
 通常、ICUは家族しか入れないのだが、意識が回復したばかりの光一には、人との交流によって、話すことや、考えること、触れ合うことによって、この世界に穏やかに着地していくことが重要だという判断もあったのだろうか、看護師が博史に「お会いになりますか」と言ったらしい。
 異例の措置であったが、浩が薄暗いICUに入ってきた。
「おお」
光一はすぐにそれが高校時代からの友人の博史であることを認めた。
「何しに来てん?」
「何言うてるねん。心配して来たんや」
「心配はいらんわ」
「死ぬとこやったらしいやないか」
「いや、死んだんや」
「ん?」
「俺な、一回死んだんや。ほんでな。わかったんや」
「何がわかってん?」
「全部や。すべてや」
「ふーん。何がどうわかってん」
「あのな。まず、こう光があるやろ」
「あるて、どこに?」
「あ、もう! 見えへんのか。ここや。あるやろ。そこにも。ほら。ほら」
「とにかく、助かって、気がついてよかったな」
「そうや、俺は気づいたんや。すべてのすべてのすべてにな」
「うーん」
博史はうろたえたようにそこで一旦、言葉を切った。そして結局、こう言った。「それは何よりやな」
「だから、それを伝えんとあかん。だから、戻ってきたんや」
「これからまだお前、しばらく大変やぞ」
「もう大丈夫や。これはな、人類の夜明けなんや」
「どういうこと?」
「俺はな、世界平和のためにまだせんとあかんことがある。そやから、戻ってきたんや」
「・・・・・ああ。ご苦労さん」
博史がなぜ戸惑った表情を見せるのか、その時の光一には理解できなかった。
「ええか、よく聞けよ」
地元の高校に哲学研究サークルを立ち上げた仲間のひとりであった博史は、光一が昏睡中に体験したこと話す相手に打ってつけではあった。
 だが、まだ光一は呂律が回らず、言葉はすぐに混沌に落ちるのだった。後で博史に聞いたところによると、光一の話すことの殆どは不明瞭な発語のために意味が解せなかったという。それでも、伝えたい内容としてわかったことは、次のようなことだったらしい。
 後に光一はそのメモ用紙を博史から受け取ることになる。

《お前がうわごとのように言っていたこと》
 「臨死体験をして、存在と時間の秘密がすべてわかった」
 「自分という意識のない、ただの覚醒が、宇宙全体に広がり、染みわたっていた」
 「永遠の今ここの覚醒そのものから、時空が誕生したプロセスがわかった」
 「なにものにも碍げられることのない、限りない覚醒だけの世界には何の不満もなかった。至福というよりは、喜怒哀楽を超えた清浄な世界だった」
 「ただ今想えば、その世界にいる限り、僕はこの現実世界に何の働きかけもすることができない」
 「生きたこの世に戻ってきたのは、何かしらすることが残っていたからだと思う」
 「自分の場合はそれは執筆を中心とした表現活動だと思う」

蘇生初期には光一の発語は自分でももどかしいほど不明瞭だったし、話の脈絡もふと気づくと何を言おうとしていたのか、頭が真っ白になって、混乱してしまっていることもよくあった。
あれ?と思いながらも、また遥か彼方から言葉が届くにまかせて話し続けた。
また、数日後には光一は筆ペンでスケッチブックに時空の構造について図と説明の文章を書いた。それを描写している最中には、宇宙的な啓示が筆先から溢れ出ているようで、ひとりよがりな教祖的恍惚の中にいた。
が、そのご託宣のはずの用紙を後で見ると、そこにはまったく意味のわからない墨跡がのたくりまわっているだけだった。
そのような状態の蘇生直後の「うわごと」から、博史が一応意味のわかる文に整えてくれたものが、このメモである。
人の書いた文章を解読できるまでに回復してからこのメモを読んだ光一は本当に自分がこう言ったのか、心もとなかった。。
 というのも、脳の混沌が収まり、聞き取りやすい話を脈略に沿って、話したり、書いたりできるようになった頃には、光一の脳裡からは「死後の世界」の鮮明なイメージや洞察は失われていってしまったのである。
 「おまえはあの時、確かにこう言っていたぞ」という博史の証言は、彼岸の世界から人間の言葉が綾なす言葉の世界の浜辺に打ち上げられた数少ない貝殻たちとして、波の引いた砂浜に点々とその跡を残したのだった。
 だが、時間が経つにつれ、光一は自分が本当にそのようなものを観たのか、わからなくなってしまった。それは低酸素脳が見た夢か妄想のようなものに過ぎないのではないかと思えた。
 
(7)

 めったにFACEBOOKを開かない光一がその日、メッセンジャーを確認したのは最近知り合ったギタリストに出したオファーへの返事を読むためだった。
 しかし、それとは別にいくつかのメッセージが溜まっていた。

 そのうちのひとつがキムソラからの連絡だった。記憶の一角にはあったが、もはやそれだけの縁と思い始めていた名前であった。
「光一さん。音楽フェスでの出会い以来、お久しぶりです。あのときはミエちゃんのこともあって、本当に運命的なえにしを感じました。一陣の風が、ほんの近くにいながらもすれ違っていたかもしれない二人を結んでくれました。
ところで今日、連絡したのは他でもありません。私が年に一回程度、皆に集まってもらっている宴会に、光一さんもご一緒できないかと思いついたのです。話せば長くなりますが、その宴会には大阪で障碍者運動を牽引してきた先駆者たちがたくさん集まります。
私は光一さんが車椅子生活の中で日々感じることを綴っている『電動車椅子でGO!』というタウン誌への連載に気づき愛読しています。そんな光一さんにぜひ会わせたい、大阪の障碍者運動の先駆者たちが大勢いるのです。
会場は上本町の食の雑居ビルの中です。身体障碍の方も複数参加されるので、バリアフリーでしかも入り口近くの席を予約しています。光一さんもぜひご参加いただけませんか」

 光一はあの日のキムソラの顔を思い浮かべた。親友ミエのことで唯一応援していた日本人の「コーイチ」というのは今、目の前にいるこの人だと知ったときの泣き顔が蘇ってきた。
 その彼女が光一に引き合わせたいという何人もの人がいるという。
「お誘いありがとうございます。ぜひ、参加したいと思います。詳細をお知らせください」
 少しそっけない気もしたが光一はそうとだけ返事した。しかし、また新しい世界の扉が開けそうな予感に内心は少なからず沸きたっていた。

 続いて光一はギタリストからのメールを開いた。
 今は閉業してしまった大阪は釜ヶ崎のライヴハウス「胡蝶の夢」を車椅子で訪れた光一は贔屓のミュージシャン、マントラーズのライヴでギターを弾いていた雅治に初めて出会った。
 数多くの曲をギターで作ってはいたものの、リードギターが苦手で、弾き語りに厚みを持たせられないのが悩みだった光一は、彼の技量に感服した。ぜひ自分の曲のバッキングをしてもらいたいものだと願った。
 演奏の後、演者も観客も隔てなく酒を酌み交わすうち、光一は雅治というひとりのギタリストの立ち位置に運命的な出会いを感じた。
 雅治はもともと自分のバンドを持ったり、ソロで活躍しているミュージシャンではなかった。とにかくギターを触るのが好きな彼はいずれかのバンドやミュージシャンのバッキングをすることが多かった。
 どんなキー、コード進行でも、わずかな打ち合わせの後、彼は見事なバッキングをこなし、求めに応じてギターソロのパートを受け持ち、曲に花を添えるのだった。
 一口にミュージシャンといっても実に様々なタイプが存在する。雅治には作詞作曲を手がけたオリジナル曲は少なく、様々な歌い手とユニットを組んで、ギターという自らが愛する楽器を駆使した。そうすることが大きな喜びに繋がる助っ人タイプだったのである。
 一方、光一は、一〇代の頃からアコースティックギター一本で様々な曲を作ってきた。プロのミュージシャンの曲をコピーして練習することは少なかった。単純なコードを三つ覚えるともうそれを使って自分の歌を作り始めた。
 そのほとんどはジャンルでいえばフォークソングの類に近かったと思う。アコースティックギター一本で自己流の音楽を作り続けるとどうしてもそうなりがちである。だが、自分の作った曲と、自分が聴くのが好きな音楽との間には大きな懸隔を感じて欲求不満に陥っていた。
 内側から突き上げる表現欲求だけを原動力に、ギターの練習も碌にしないでとにかく自分の曲を作り続ける光一。
オリジナル曲は作らないがどんな楽曲にでも愛するギターという楽器の音色で無限の彩りを描き続ける雅治。
その二人はいわば好一対のタイプのミュージシャンだったとは言えまいか。
 光一がミュージシャン? それは烏滸がましい言い方だ。彼はどのジャンルにおいても自分勝手な表現者に過ぎない。表現者という言葉すら、取り澄ましていて恥ずかしい。
 だが、いずれにしろ、光一はギタリスト雅治を必要としていた。

 月に何本ものライヴでギターを弾いていた雅治が、光一のような素人に関わる時間ができたのには、COVID19流行の影響があった。
コロナ下で何度も出された緊急事態宣言、その解除の後も次に緊急事態宣言が発せられるまで結局は隙間を埋めるように続く蔓延防止措置。
 そんな中で特に「槍玉」に上がった規制対象が、飲食店であり、中でも飲酒を伴う居酒屋、飲酒する中で歌を歌い唾を飛ばし密になって踊ったり歓談したりするという「言いがかり」を付けられたライヴハウスだった。
 コロナ感染対策としてライヴハウスに休業を要請する。そのことにどれほどの科学的根拠があるのかについては、光一も雅治も疑問があった。特にもっと密になる毎日の通勤電車などと比較する時、そっちを規制せずしてなぜ「夜の街」だけをスケープゴートにするのか。そのことには、多くの人々が疑問を抱いていたと言ってよいだろう。
 仕事を失ったミュージシャンたちは、これまで以上にアルバイトに精を出すしかなかった。
 酒や手料理を手早く用意する厨房や、広いジャンルの楽器に適応できるPAやスピーカーなどを備えたライヴハウスがいくつも、休業、さらに廃業に追い込まれていった。
 ライブハウス・・・・ひとつひとつの規模は小さくても、広い裾野を持っていた、音楽という芸術分野の文化的インフラ。それが根こそぎドミノ倒しされていったのだ。
 コロナの影響でその彼へのバッキングの依頼が、突然殆どなくなった。
 皮肉なことにその逆境によって生まれたギタリスト雅治の手持無沙汰が光一には好機となった。ライブハウスで知り合ったプロのミュージシャンである雅治に光一はダメ元で自分の曲のバッキングとレコーディングのオファーを出してみたのだ。

 キムソラとのやり取りを処理した光一が次に開いた雅治からのメッセージには、ありがたいことにこうあった。
「とにかく、光一さんの曲を聴かせてください。一緒にできることを探りましょう」
 一度死にかけた後の生活のすべてがそうだと言えたが、あらゆることが加速度を増していた。
 生きている時間は短く、その間にしかできないことがあり、今ここは一度きりだ。
 その切実な感覚が破裂しそうに膨らんでいた。

(つづく)

もしも心動かされた作品があればサポートをよろしくお願いいたします。いただいたサポートは紙の本の出版、その他の表現活動に有効に活かしていきたいと考えています。