The Izu Trip ー川端文学をアメリカ人に紹介するー

The Izu Trip ー川端文学をアメリカ人に紹介するー           長澤靖浩

 カリフォルニアにいたころ、アメリカ人の友人が、「川端康成は The Izu Dancer っていうダンサーの話を書いて、ノーベル文学賞をもらったんだってな」と(英語で)言ったとき、なんだか違和感があった。ダンサーと踊り子は違うんだぜというレベルの違和感ではなく、もっと深い違和感だった。

 僕は「伊豆の踊り子」とはどういう作品なのか、彼に何といって説明すればいいのか、考えあぐねてしまった。結局、随分日にちがたってようやく、整理がつき、彼に話しに行くことができた。以下は、僕がつたない英語で彼に語ったことを、改めて日本語で書き下ろしたものである。

 そうじゃないんだ。「伊豆の踊り子」はダンサーの話というだけではなく、旅(トリップ)の話なんだ。川端はこの作品でひとつのトリップと、そのトリップの際に見た変性意識を描いているんだよ。
 主人公の「私」は、「自分が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れないで伊豆の旅に出」るんだ。つまり、旅(トリップ)によって、意識を変えて、新しい視野を得ようという試みたんだな。
 
 話は、雨脚に追いかけられながら、天城峠へと上っていく「私」の描写から始まる。とうとう雨に追いつかれて、大粒の雨が「私」を打ち始めるんだけど、その直後にやっと、峠の茶屋にたどりつく。そこには、会いたい会いたいと思っていた踊り子の一行が休んでいたんだ。
 雨という困難に追いつかれそうになりながらも、どうにか、峠にたどりつき、踊り子に会う。それは、困難の折り返し地点にたどり着いたことを指している。わかるだろう。峠というのは、上り坂の終わり、困難の折り返し地点だ。「私」は、ここで「峠を越える」わけだ。ここから、すべては良い方向に向かい始める。
 ただ、この茶屋の中では、「私」はまだ踊り子に積極的に話しかけることができない。「峠の茶屋」の役割は、どうやら一服してこれから始まる変化に備えることにあったようだね。
 
 さて、踊り子の一行は先に出発してしまう。雨が止んで、「私」もそそくさと後を追う。そして、暗いトンネルを抜ける。そこんところの描写はこうだ。
  「暗いトンネルに入ると、冷たい雫がぽたぽた落ちていた。南伊豆への出口 が前方に小さく明るんでいた。」
 峠に続いて、トンネルは二つ目の意識の転換点だ。「南伊豆」は陽光あふれる異郷だ。意識の明るい解放が起こりうる場所だ。トンネルの向こうにそこへの出口が見える。すごいね。川端が風景を描く時、それはいつでも意識を描いているんだ。
 彼はやっぱり天才だよ。

 トンネルを抜けたとたん、稲妻のように意識は走る。そこのところの描写はこうだ。
 
 トンネルの出口から白塗りの柵に片側を縫われた峠道が稲妻のように流れていた。この模型のような展望の裾の方に芸人たちの姿が見えた。六町といかないうちに私は彼らの一行に追いついた。

 白い稲妻は、意識の電撃だ。意識の電撃がまず最初に踊り子に結びつく。一瞬の出来事だ。それから、しばらくして肉体が追いつく。こうして、「私」は踊り子の一行と旅の道づれになるんだ。
 最初に意識がそこへ行き、ある程度のタイムラグの後に物質的にそれが実現するというのは、本当はいつでもそうなんだけど、変性意識に入っているときには、ふだんよりもっとよく見えるよね。
 そして、もちろん、本当に深いところに入っているときには、そのタイムラグすら消えてしまって、意識と現象が刻一刻の相応関係になりひとつになるわけだね。

 踊り子の一行と歩いているとき、後ろの方から踊り子たちの噂話が聞こえてくる。
 「いい人ね」
 「それはそう、いい人らしい」
 「ほんとにいい人ね。いい人はいいね」
  この物言いは単純で、明けっ放しな響きを持っていた。感情の傾きをぽいと幼く投げ出して見せた声だった。私自身にも自分をいい人だと素直に
感じる事ができた。晴れ晴れと眼を上げて明るい山々を眺めた。

このような踊り子たちとの交流は、「私」に深い癒しをもたらす。
 だが、下田の港に向かう道で、ところどころの村の入り口に立て札があるのを「私」は見る。

・ ・・・物乞い旅芸人村に入るべからず。

 これは日本における当時の差別の現状を写し取っているんだが、同時に意識にとっては深い次元での「ストップ」と映る。自分と踊り子はけっして完全にはひとつにはなれないということを象徴しているんだ。 
 
 さて、踊り子たちとのふれあいを通じて深い癒しを体験した「私」は、下田の港で、一行との別れの時を迎える。踊り子と「私」は深い交流を経てきたが、けっして完全にひとつにはなれなかった。そして、ここから道は別れていくんだ。
 ところが、別れは「私」をさらなる変性意識に導いていく。
 もともと「別れ」というのは、今までのすべてを別の光の下に照らし出すという力があるよね。旅の中での小さな別れでもそうだし、卒業式なんかでもそうだ。また、結婚式なども自分を育んできた家庭との別れの瞬間として、変性意識を導く場合がある。また、人生最大にして最後の別れである死の瞬間には、やはりもっとも強烈な変性意識が引き起こされると言っていいだろう。
 そういう意味では、臨死体験とは、死という最大の別れの瞬間の擬似体験だとも言えるよね。

 「私」は、下田の港で、踊り子に別れを告げる。だが、いよいよ船が出るという段になっても、踊り子は口を結んで黙ったままだ。今にもあふれだしそうな互いの悲しみが、ぐっと深まっていく場面だね。
 船は出港し、もう踊り子の姿も見えなくなった。「私」は船室に入ってカバンを枕に横たわって泣く。
 そして、このとき「私」は、船の中で高い波に揺られながら、自他の区別が溶けていくような深い変性意識に入っていく。

 頭がからっぽで時間というものを感じなかった。涙がぽろぽろカバンに流れた。

 これは旅愁というようなセンチメンタルなものじゃないぜ。「頭がからっぽ」「時間を感じない」という言葉を文字どおりに取るなら、これはかなり深い変性意識だぜ。
 たまたま横に寝ていた少年は、「何か御不幸でもおありになったのですか」と尋ねる。「私」はこう答える。

 「いいえ、今人に別れてきたんです」
 私は非常に素直に言った。泣いているのを見られても平気だった。私は何も考えていなかった。ただ清々しい満足の中に静かに眠っているようだった。

 この素直さ。ふつうなら恥ずかしいよね。
 さらには、こうだぜ。

 少年が竹の皮包を開いてくれた。私はそれが人の物であることを忘れたかのように海苔巻のすしなぞを食った。そして少年の学生マントにもぐり込んだ。

 私はどんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるような美しい空虚な気持ちだった。明日の朝早く婆さんを上野駅へ連れて行って水戸まで切符を買ってやるのも、至極あたりまえのことだと思っていた。
 何もかもが一つに融け合って感じられた。
 
 「受ける親切」と「施す親切」がひとつになり、「何もかもが一つに融け合って感じられる」・・・かなりぶっとんじゃってるよな。
 実は川端は仏教や老壮思想に造詣が深かったんだ。でも、ここで川端は仏教や老壮の思想を表現しているわけじゃないぜ。自らの直接体験としての、とびきりハイな意識の高原を描いているわけなんだ。むしろ、こういうハイな体験が根にあったからこそ、仏教や老壮思想に惹かれていったんだと思うね。
 
 真暗な中で、少年の体温に温まりながら、私は涙を出まかせにしていた。
 頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった。

 変性意識を描いた近代日本語の文章の中でも、やはりこれは秀逸なもののひとつだと思うな。「頭が澄んだ水になる」・・・水というのは火とならんで、エネルギーの象徴だな。自分がエネルギーのレベルに還ってしまい、そのエネルギーがぽろぽろと零れる・・・
 「後には何も残らないような甘い快さだった」
すごいラストシーンだろう。だが、僕なら「ような」を省いて「後には何も残らない甘い快さだった」とするな。
 「頭が澄んだ水になってしまって、それがぽろぽろ零れ、後には何も残らない甘い快さだった」ってね。
  
 どうだい、わかっただろう。だから、この話はダンサーとの淡い恋の話であると同時に、旅先でのそのダンサーとの交流を通して起こったトリップの話なんだ。変性意識を描いているんだ。
 川端の代表作は、たとえば「雪国」にしろ、何にしろ、みな、変性意識を描いた作品なんだ。
 日本では、こういうのは、西行、芭蕉以来の文学の伝統なんだ。近代では宮沢賢治なんかもすごいぜ。
 だけど、それでもダンサーというのは確かに重要な要素ではあるな。森鴎外は『舞姫』という小説で作家としてのスタートを切ったし。
 君のお父さんの故郷ドイツのヘルマン・ヘッセの『荒野のおおかみ』なんかでも、主人公の自己探求のプロセスにダンサーという存在が与える影響は大きいな。
 自己探求する神経質なインテリと、「ダンサー」というのはひとつの普遍的なテーマかもしれない。

 どうかな? ちょっとは日本文学を見直してくれたかい。翻訳物でもいいから読んでみなよ。
 ぶっとんじゃうこと請け合いだぜ。

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