宗教は解体したとき最も輝く

前田敦子は嫌いになってもAKBは嫌いにならないでくださいという名言?があるらしい。
宗教ミーティングでしばしば教団や現状や派生団体を嫌いになっても、開祖や根本経典や仏陀は嫌いにならないでくださいという趣旨のやつがある。
たとえば創価学会は嫌いになっても日蓮や法華経や唱題は嫌いにならないでくださいとか。
しかし、その前に今の創価学会を嫌いでも池田大作を嫌いにならないでくださいで止まるやつもあるぞ。
つまり、人によってどこまで解体するかはグラデーションになっている。
辻褄合わせの理屈をつければ、嫌いになりたくないものを嫌いにならない理屈は案出できる。
法華経に差別思想があるから南無妙法蓮華経とは唱えられないと僕がいうと、南無妙法蓮華経とは法華経に帰依するという意味ではなく法に帰依するという意味だと言われた。
ではダンマンサラナンガッチャーミでもいいし、
限りなきはたらきのままにという自分の言葉でもいいではないか。
何も現に存在する法華経のパッチワークをしなくても、一から自分と限りなきはたらきの直接交感でよい。
しかし、それが辻褄合わせ、パッチワークだと言い出した瞬間、信者とは袂を分かつことになる。
僕が来て、しつこく、そういうのは、迷惑かもしれない。
僕はただ、どこでなぜ何がストップし、すべてを解体してしまわない原因になっているのかを観察しようとしてやってくる。
迷惑なやつだ。(-_-;)

同じことは浄土教でもあった。
48願に差別思想があるから、南無阿弥陀仏とは称えられないというと、かなり抵抗された。
有縁の教えへの愛着というものがあるのだろう。
僕はすべて解体して、ふきさらしの虚無になっても、限りなきはたらきのままに生きて死ぬから何も困らない。
むしろ、すべて解体し、ふきさらしの虚無になれば、直接無媒介に、限りなきはたらきに貫かれる光景だけが残るではないか!

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