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三回死んだ陶芸家@小陶苑 (1)

 陶芸家の長谷川さんは、嵐山の落柿舎をもう少し北へ進んだあたりに、店と工房を構えている。
 小道から覗くと、小昏い樹々の隙間から、やや薄暗い灯りの店舗が見え、陶芸品が並べてあるのがわかった。その店舗のたたずまいを一目見たときの印象は「センスがいい」に尽きた。
 どんな陶芸を焼いているのだろうか。庭に入っていくと奥の部屋の椅子とテーブルの並びが喫茶に見えた。そのうち、物音に反応したのか、70代ぐらいに見えるおじさんが奥から現れた。
 「ここで喫茶をされてますか?」
「してないよ。・・・・そやけど、コーヒー飲んでいく? 僕の淹れるコーヒーはおいしいよ」
「あ、ぜひ」
 僕が建物の入り口で電動車椅子を停め、不安定に立ち上がると彼は「ここにつかまったら大丈夫。大丈夫やから」と両手を広げた。
 そういうときのちょっとしたしぐさや言葉がけで、対する人へのその人の丁寧さというものがわかる。愛というのにはおおげさだが、丁寧。ぞんざいではない。その感じが伝わる。
 彼に手伝ってもらって椅子に腰かけた。見回すと置いてあるものや、壁にかけてあるものなどのすべてにセンスと配慮がいきわたっているのがわかる。
 物に対する接し方と、生き物や究極的には人に対する接し方にはどこか共通するものがあるものだ。
 コーヒーを淹れながら彼はどのように淹れるのがいいのかの説明を始めた。これにはそれぞれの哲学がある。僕は何人もの、コーヒーのプロやマニアに説明されたし、その手つきや手順を見たことがある。それは一致しているとは限らない。むしろ、それぞれかなり違う。しかし、うまいコーヒーを淹れる人は自分の哲学に忠実で丁寧だという点は共通している。そこまで抽象化したときに現われるのが「共通性」というものだ。
 「イノダコーヒーの社長さんはもう90を越えて引退してはるけど、彼がコーヒーを淹れるところを一目見たいと多くの人が彼を訪れたものだ」
 「イノダコーヒーの本店は行ったことがあります。社長さんの淹れるのを見たわけではありませんが」
 「その社長がここに来たとき、僕は聞いたんや。うまいコーヒーはどうやって淹れるんですか?って」
 「へえ。ここに来はったんですか」
 「そしたらな。おいしくなーれと想いながら淹れるやというのが答やった。そのときは拍子抜けしたわ。子どもだましみたいで」
 それってメイド喫茶で物の道理もろくすっぽわからない一〇代の女の子に一緒にやってくださいって「強制」される台詞やんと僕も思った。
 「そやけど、やっているうちにわかったんや。おいしくなーれと想って淹れるとな、豆を見るねん。そのときの状態を、湯加減を、空気を全部を感じるねん。ほんで、一番おいしく淹れるにはどうしたら一番おいしくなるかつかむねん」
 「いつもこう淹れなさいというマニュアルじゃなくて、一期一会の状況の中での最適を自分で見つけるしかないってことですね」
 「そうや!」
 ちょっとスピっている。僕もスピっているからわかるのだ。(笑) だが、言っていることは、スピの中でも許容範囲だ。
 ただ、たくさん言葉で説明しているので、実際にはあまり豆を見てないし、空気を感じていないように見えた。大丈夫かな?
 しかし、出来上がったコーヒーは苦いわりには雑味が殆どなく、とてもおいしい。
 「苦さのわりに荒い雑味が消えてますね。おいしいです」
 「そやろ」
 緊急事態宣言下の嵐山、しかも、駅周辺や天龍寺からは、有名な竹林を抜けたその先にある、この陶器店の前は殆ど人通りなどない。彼は、たまに通りがかり、自分の店ややっていることに興味を抱き、対等に話せる客と話すのが楽しみのひとつなのだろう。(彼は「僕は誰とでも対等に話す。高校生でも」と言っていた。)
 「お客さんはコロナ以降激減ですか?」
 「ぱたっといなくなったな。特に外国人が来ない」
 「潰れた店も多いでしょう」
 「そうやな。この周りも三軒、中国人が買った」
 「ここも苦しいですか」
 「いや、僕はもういいねん。おやじが始めたこの店はもう五〇年以上やっている。僕は二代目や。僕の子どもたちももう独立したし、細々やっていけたら、それでええんや。ほんでこうして、来客と話したりできたら。それでいいんや」
 おそらくこの土地や建物が自分のものなので、経費は陶器の材料や燃料だけなのだろう。儲からなくても潰れはしない。その原理はわかる。
 実際彼は「京都では扇子商売といってな。何百年もの老舗はそうやって生き残ってきたんや」と説明を始めた。ええときは扇子を広げる。そやけど、扇子一本分や。広げすぎたら閉じられんようになる。不況になったら、ちゃんと閉じられる限度までしか広げない。資本が出来たから言うて、もっとこうすれば儲かるんちゃうかという発想で事業を広げたりしない。支店を出したり、従業員を雇ったりしない。あかんときにはさっと扇子を閉じて、耐えられるところまでしか広げないんや。
 「陶器を焼くのが好きならそれ一本で、自分の店にそれを並べるだけってことですね」
 「そういうこっちゃ。もう僕はこれでええねん。子どもらも独立して心配ないし、最後は全部つこうて、死んだろと思ってる」
 初めは店の話だったが、徐々に人生そのものの話に移っていく。
 「それに僕は今までに三回死んだんや。今は生きているだけで儲けものという毎日や。ああ、今日も目が覚めた。ああ、今日もおしっこが出た。それだけでありがたいことやと思ってる」
 「え、三回も死んだんですか!? 僕も一回死にましたけど。どんなふうに三回死んだんですか?」
 すると、店主は(聞くと長谷川と名乗った)最近の「死」から順に遡って話してくれた。 


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