解脱することと地球の上に生きること
昨日のZOOM楽座「魂の螺旋ダンス(3)民族国家宗教」にEiboさんをゲストに呼んだのは、予想以上の成功だったと言えるだろう。
彼の語りは明晰だし、かつてこの議論を盛んにしていた2000年ごろの後も神道を撃つ視点や、部族シャーマニズムに関する探究は続き、深まっているのを感じた。
(僕は体調を万全にしておかなかったのが反省点だが、いつも以上に低酸素脳後遺症で発語の呂律が回りにくかったので、代わりにどんどん明晰に『魂の螺旋ダンス』が民族国家宗教としての神道を撃つ視点を解説してくれるのは、とても助かった。)
部族シャーマニズムの立場から、神道を撃つということに関してfocusするとき、彼と僕がともにその仕事をしようとするのは、よいコンビだというのは予測どおりだった。
その上で後半の最後の方、そして実は公式には二時間の読書会が終わったあとにも3時間近く続いたもうひとつのテーマは、実に刺激的でもあり、チャレンジにも満ちていた。
Eiboさんは僕よりも超越性宗教に関する関心が薄い。生死を超えた永遠の今ここに関して「それはそういうことはあるだろう」としつつ、「地球の上に生きる」という立場に還っていく。
それは、螺旋ダンスというよりも、むしろ循環ダンスに近い。地球人類のシャーマニズムに対してほとんど究極的に重視する立場なのではないかと思う。
そこから見ると、僕が螺旋といっている展開は殆ど直線であり、ケン・ウイルバーにあまりにも近いということになる。
僕の視点ではシャーマニズムとは、自ら変性意識に入って、智慧やパワーを得てこの世に持ち帰る。持ち帰って活かす。その往復運動なのだ。
しかし、超越性宗教とは、そのような世界構造、世界認識そのものを解体し、宇宙のはじめから永遠の今ここにあった光とも空とも覚醒とも悲しみともいえる非二元性に還る。
そこでは、世界そのものが解体する。時間も空間も、生も死もなくなる。解脱である。
Eiboさんに言わせると、それは初めから常にあったのではないか。
それはもうひとつの話なので、螺旋への絡まりに包含して考えるのではなく、別の話ではないか。別の本にしたらいいのではないかと言うのである。
その上で「地球の上に生きる」というのは本当はどういうことなのか?が今一度問い直されているのが、このコロナ時代なのではないかというのである。
僕から見ると、それでは永遠と時が交差しない。
尽十方無碍光はこの世と没交渉でこの世に切り込まない。
ただEiboさんの話自体はよくわかる。それは実は1960年代からヒッピーカルチャーなどが洞察し、予見し、実現しようとしていたものであろう。
そして実は1990年代、ジョアンナ・メイシーのディープエコロジーや、ティクナットハンのテーラワーダ仏教が欧米に受け入れられていく際、見られていた視点でもある。
しかし、実は僕はその際にも違和感を感じ、いちいち表現していた。
ジョアンナ・メイシーは八千頌般若経を所依の経典として『世界は恋人、世界はわたし』(星川淳訳)を書いたと言われるが、僕から見ると、仏教はこの世界におけるエコロジカルな相互連関を縁起と言ったのではない。
人間の脳の二元的認識構造を十二縁起として把握することによって、二元的認識構造を破壊した。
このあたり、『魂の螺旋ダンス』では6章に詳細に論じている。
僕はディープエコロジーの重要性を十二分に認めるが、それは仏教ではないと書いている。
Eiboさんと星川淳さんには、第6章を論じるときにぜひもう一度ゲストに来ていただきたいと思っている。
そのとき、非二元的覚醒そのものは螺旋に絡まるものではなく、根底にある別のものとする構図のほうがよりわかりやすいという結論に達するか、それともそれも含めての螺旋ダンスなのだという詩(うた)が描き出されるか、それは僕がまだ完全には取り組んでいないチャレンジだと思っている。
ところで、今回、あびが、あまりにも発語の呂律の回らない局面が多かったのは、何かをきちんと言おうとするときの脳の現象なのか、疲れなのか、自分でも少しショックだった。先ほど酸素缶をアマゾンに注文したが、今度、話すとき同じようなことが起こったら、酸素吸入をして脳内酸素濃度を上昇させて話してみようと思っている。聞き苦しい点はあったと思いますが、これに懲りず、またこのシリーズに来てください。
あび。
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