臨死体験者のリアリティはこの世のとらえ方にこそ現れる件

『一三分間、死んで戻ってきました』について、枚方市ローカルインフォメーションペーパーLIPには旧友吉村萬壱くん(芥川賞作家)のレビューを載せてもらった。

発行後すぐに『一三分間、死んで戻ってきました』を買ってくれた筧満さんは、友人にあげるためにあと2冊ほど『一三分間、死んで戻ってきました』がほしいと言った。

「ひかるさんのBASEで『魂の螺旋ダンス』が100万円なのは笑えた。すばらしい」と彼は言った。

というのも自分が作った無農薬米も値段はつけられないものだというのだ。

そんな話の流れから、この本2冊と、彼がオフグリッドの電気しかほとんど使わず作った無農薬米3キロを交換した。

家まで車でコメを持ってきてくれたとき色々話した。

筧さんは、吉村くんのレビューをネットで見て、もう一度、吉村くんの『ハリガネムシ』やエッセイを読んだという。

なぜならそこに描かれていた彼の文学の暴力性を覚えていたので、その彼がこの本を読んで「汚れで詰まっていた心のパイプが気持ちよく通った」といった大変まっすぐで素直な感想に驚いたようだった。

わかる。

僕は捕捉説明した。

まずもって、吉村くんは最初この本を読んだ直後にとてもよかったという趣旨の私信をくれた。僕はそれを転載していいかと聞いた。そしたら、「外向けに書き直すからちょっと待ってくれ」と言って一日ほどで書いてくれたのが、発表されたレビューだ。

これはそつなく書かれている。が、ある意味では最初の私信の方がおもしろい。

 全文を引用するのは控えるが、そこにはたとえば、互いの母親にフォーカスしたこのような一節がある。

 君の母上は、学生運動に関わるなとか、大学を出てちゃんと就職せよなどと口うるさく言うところは世代的に僕の母親と共通していて、思ったことをストレートに言って人を傷つけるところなど性格的にもとても似ているが、「そやけど、正しいことをしているのを止めるわけにはいかへんな」という公正で客観的なジャッジも出来るという一点において、自己愛の強い変わり者の僕の母とは違っていると思った。(引用終わり)

 『哲学の蠅』その他のエッセイに顕著だし、小説にも潜在的にあちこちに流れている基調低音だが、彼は幼少期にこの母親に明らかな虐待を受けたことを公開している。僕がそういうと、筧満は僕が吉村にもらった『哲学の蠅』の表紙の写真をスマホに撮影していた。

 「近所の図書館にある。読んでみる」

 「このエッセイにはN1という名前で僕が頻出する。
    この本にも実話として公開されているが、彼の文学には虐待を受けた幼児期が潜在的なテーマとしてある」

 僕は筧さんにそう言った。

 「そう。ひかるさんの本は最後の突き抜けたところだけ、書かれている。だが、吉村さんの小説は、苦しみのまっ只中でその先にあるかなきかの光を見たり見失ったりする人物を執拗に描いている。その違いがある。そして二人は高校時代からの友人だ。そのことが今回、くっきり見えた」

 「そうそう。だから、僕のは、読者に『お前は突き抜けたんなら、そりゃあ、いいよな。でも、自分のことを君には、けっしてわかってもらえないよな』と思われることがある」

 「うーむ。そういう危険性があるね」

 「吉村くんの書くものはその突き抜けたところではなくて、暴力に蹂躙される自分や、暴力をふるってしまう自分を執拗に描いているから、娑婆での文学の典型といえる。だから、小説家としてちゃんと名を成したんだ。みんな、そこで生きているんだから」と僕は筧さんに説明した。

 そして、彼ら「文学を志す者たち」の間で、十代のころ、僕は「文学するなら、お前は宇宙の愛に行ってしまうんじゃねえ。そんなことするんなら、文学はやめて、今すぐインドのバクーニン(バグワンの間違いw ま、実際にはそれは文芸部の先輩生地さんのわざとの間違いに顕著だったのだが)のところへ行ってしまえ! ばかもん」と揶揄され続ける立場だった。

 そして、そのまんま、10代の少年たちは、60代のおじいさんになったのだ。

 だから吉村くんはこの本を読むまでは、自分が人に紹介できるかどうかわからんと言っていた。最悪の可能性としては、とんでもスピリチュアル本である可能性を懸念していたわけだろう。

 だから、「おや?」という感じがレビューの言葉づかいに現れている。たとえば、「大変真っ当なものを読んだ気がして」とかいう部分の言葉の息遣いが僕にはわかる。裏には「とんでもスピリチュアル本ではなかった」という安堵感がある。

 そして、心のパイプの汚れがすっきり通ってしまっては、文学は終焉するのであるからして、そんなことになってしまっては困るのだが、「汚れで詰まっていた心のパイプが気持ちよく通った」と彼は書いた。

 「真っ当だ」「汚れで詰まっていた心のパイプが気持ちよく通った」ということは、十代のときから、これまで認めることのできなかった「超越性」をある意味、「自分はこれからも娑婆の文学を書くだろうが、これはこれでよいのだ」と認めたということだ。そこには「バクーニンのところにでも行ってしまえ」「二度と文学作品の中で『宇宙』というな」などという揶揄はもうないのだ。

 だから、彼のレビューの特徴はこんなところにある。

「完全に透明で静かな『永遠の今』でした」と語られる臨死体験の世界そのものは特に意外性を感じなかったが、「あの『完全な世界』のたったひとつ寂しいところは、この世に具体的にはたらきかけることができないということなのです」という一文には、経験者ならではの強いリアリティを感じた。(引用おわり)

 臨死体験そのものには「特に意外性を感じなかった」。それは永遠の哲学として、既にして10代のときから僕が語っていたものが、観念的にではなく、徹底しただけだ。

 そして、むしろ「あの『完全な世界』のたったひとつ寂しいところは、この世に具体的にはたらきかけることができないということなのです」という一文の方に「経験者ならではの強いリアリティ」を感じたというわけだ。臨死体験の経験者だからこそ語っているというリアリティが、「この世をどう見ているか」という一点において伝わってくるというのだ。

 ここの言い回しが、このレビューの筆力が鼎を上げている一点であろう。

 きれいに言ってしまえば、超越性と娑婆性は、超越しきって戻ることによって、螺旋を描いたのだ。


こうして吉村萬壱くんが書いてくれたレビューはLIP2023年10月号に掲載されています。


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