『あん』ドリアン助川 レビュー

『あん』ドリアン助川 読了

作者を知らなかったが、優れた小説家だといえる。他にもほぼ自作詩朗読に近いロックなど、面白い試みもしているようで、その動画にも真摯な生きようが垣間見られた。が、とりあえず、この小説に関してはまず「よい小説を書く人だ」と言える。
冒頭しばらくは文体がやや軽薄に見えたが、どら春という店名も桜がこの小説の中で持つことになる意味も、早くからの徳江の登場も必然性が深く感じられた時点で読み返せば、初めからよく計算されて書かれていることがわかる。
最初のうちは、あん作りにまつわって人生を語る小説かと思いきや、主人公の過去と現在、徳江のハンセン病(元)患者としての生涯などが描きこまれるにつれて、文学としての深みを予想以上に増していく。
やや書き込み不足に見えた文体の、軽みの中の深い味わいも利いてくる。塩でアクセントをつける、その工夫のありようで深みを増す甘いものの味のように。
徳江の小豆の声を聞けという実場面では非現実的で「大袈裟な」アドバイスは、生きることはすべての存在に耳を澄ますことという人生観の、さらに「大袈裟な」背景を持つことで、却って宇宙的に腑に落ちる。
後半は、こんなに優れた文体であったか?と瞠目するような表現が増える。しかし、書き込み過ぎの「文学的いやらしさ」はなく、飽くまでも軽みの中の深みである。
好きな表現はいくつもあったが、一番印象に残ったのは、筆力が鼎を上げ始める際のエポックになったようにも見えた、夢の中のこの場面だ。

千太郎はもう一度「桜湯」とつぶやいてみた。すると、胸の中に花びらが入り込んできたのがわかった。それは宙を舞っていた花びらだったのに、千太郎の内側に入り、一瞬の光となって消えたのだ。

生きて死ぬとはどういうことか。どうせ小説を書くならそのことに哲学書や宗教書以上に思いを馳せることになるものを書きたいと思ってきた。
ハンセン病を患った者の、この国の差別の中での生涯というものを「道具立て」と考えてしまうとあざといが、この小説にはテーマのためのモチーフにしたという厭らしさはなかった。書きたかった必然性に裏打ちされている。

そして存在は我々それぞれに感じ取られるために在るという「哲学」は、最後にはずしんと残った。


私の小説


もしも心動かされた作品があればサポートをよろしくお願いいたします。いただいたサポートは紙の本の出版、その他の表現活動に有効に活かしていきたいと考えています。