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『見捨てられる<いのち>を考える』レビュー1

『見捨てられる<いのち>を考える』(晶文社) レビューです。

問題点が多岐にわたるのでメモを兼ねて少しずつレビューする。

第一部 第1章「安楽死」「尊厳死」の危うさ 安藤泰至

個人の自己決定による死と呼ばれているものには、実は「生きていても仕方ない」と感じさせる社会環境の問題という側面がある。→個人の価値観、死生観の問題に還元できない。
(長澤の感想。それは重病であるとか障碍があるとかに限らず、すべての人にとって同様。だからありとあらゆる種類の自殺が蔓延している。)
ここまでは安藤さんの前著『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』でも提起されていたといえる。
ここでは、次のトリアージ(緊急時における医療資源の優先的割り当てに関する選択)について論じる担当者につなげるためもあり、社会防衛的な発想に基づくとされるトリアージにも共通の問題がないか?と問いかけて章を閉じている。
すなわち「本人も納得している」という見かけの自己決定がある場合があり、それは実は社会が個人にそのように思わせて、生きるに値する命、値しない命の線引きが行われている点では同じではないか、と。
(長澤の感想。以上のすべての課題はドストエフスキーの小説『罪と罰』にも孕まれていたのではないか。私が高校2年生のとき、倫理社会の授業を担当した藤田輝雄は最初の時間になぜ自分は輝雄という名前が嫌いかを話しだした。それは『罪と罰』の話に繋がっていき、生きるべき耀く英雄と、生きる価値のない人がいるという考えは間違いだと思うと結んで、彼は自己紹介にかえた。)

以下さらに長澤の感想を少しまとめる。
これらの言説が問うているのは、生きるに値するかしないかについて、社会が個人にそう感じさせてしまっている側面についての厳しいまなざしである。これは実は哲学の根本課題でさえある。
生き難さを個人の精神的変容によって解決するべきだという側面を強調してしまう性質をもちがちなあらゆる宗教や人生論に共通する課題でもある。
重病でなくても、障碍がなくてもすべての人が己や隣人について、すべての人についてどう考えるか問われている。(広げれば人間以外の生き物についても、SFでは、なんとアンドロイドについてすら。→『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』)
特に達観的な宗教はこの問題を問われることをスルーしがちだという問題がある。
私自身が思春期の自分を解放したと感じた仏教や東洋哲学、殊に個人的にイニシェーションを結んだインドの瞑想の導師OSHOが、それをスルーしてないかという問いは私の生涯の課題でさえあった。
実際OSHOの弟子(サニヤシン)と「安楽死・尊厳死」の親和性は高く、社会的視点を導入しようと話しかけても、「自由」の名のもとにあっさり跳ね除けられてしまうこともしばしばだ。
またOSHO自身に「障碍を持って生まれた子を永遠の眠りにつかせて不幸から救ってもいい」という発言がある。(『黄金の未来』)
私はこの『見捨てられる<いのち>を考える』を他人事としてではなく、自分ごととして読もうとしている。それは私に障碍があるからという単純な理由ではなく、そもそもの根底から(思春期から)、哲学的課題であった問いに重なっているからだ。
私は「倫理的課題」として、(主に他者に処するときの指針として)これを考えたいわけではない。それは結果的に他者に関してもあてはめて考えるかもしれないが、私が問いたいのは私一個の生き方における死生観と社会的視点の統合のようなものである。そのとき、哲学が自他にあてはめる指針となって倫理という広がりを持つという感触がある。
それは『魂の螺旋ダンス』の課題であり、これから詩を書いても、小説を書いてもいつもどこかで関連したり、むしろ根源に横たわる問題に重なっているだろう。
以上メモだから、推敲するかもしれない。


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