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ひかるという名前の由来

私の本名は長澤靖浩ですが、姓は基本、天皇の臣民としての職能を表すものであり、思想的には否定している。

そこでバグワンにもらったサニヤスネームであるabhishekaの短縮形あびを長らく友人たちから呼ばれるときの名前としていました。

若いときは学校の生徒たちからさえ、あびちゃんと呼ばれていたのです。

しかし、バグワンの障碍者差別(障碍児が産まれたら殺してもいいという発言)、遺伝子操作肯定、核抑止力肯定などの言説から、彼の弟子であることをやめました。

が、永年親しんできた(22歳からだから相当永年)あびの名前で呼ぶ人は多く、今さら変えろというのも酷だと思い、放置していました。

しかし、あるとき思い立って、バグワンからもらった名前は嫌だ、自分の名前は自分でつけようと思いました。それで考えた名前がひかるです。

ひかるという名前のどこが気にいっているかと言うと、主語が幻想であるということを表す言葉だからです。

光が光るというのは文章としておかしい。ただ光るというプロセスがあるだけです。

実は宇宙のすべての現象は不二なる光のプロセスであって、輪郭のある主体の寄せ集めではありません。

川が流れるもおかしいのであって、川という主語があって、流れているのではなく、絶え間なく水が入れ替わっているプロセスを川と名付けただけです。

ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。

世界の実相は主語のないプロセスです。

ヘラクレイトスは「人は同じ川に二度と足を踏み入れることはできない」と言いました。「万物は流転する」と言った彼らしい言及ですが、ひとつ欠陥があります。

実は主語である「人」の方も、常に呼吸し、食べて排泄し、細胞が死んでは産まれているプロセスであることが見逃されています。ゆえに平気で主語にしてしまっています。一種の西洋的限界かもしれません。

実際には何もしていない「私」があってその「私」が何かをするのではなく、「私」と名指しているもの自体が常に細胞の生き死にのプロセスにあるのであり、「ゆく河の流れ」なのです。

そのことをもっとも端的に究極的に表しているのが、「光が光る」のではなく、「ひかる」だけであるということです。

宇宙は光の無限展開のダンスです。

それを動詞のまま、人の名前にしてしまうことが日本語には可能です。

ひかるは動詞です。すべての主語は幻想であることを表現しています。それを自分の名前という固有名詞にしてしまうことで、私は存在せず、実際にはプロセスであることを表しています。

あなたが私を「ひかる」と呼ぶとき、あなたはすべてはプロセスであるが、仮に私をひかると呼ぶという自覚に引き戻されます。

私は自分はプロセスであるが、仮にひとりの人間のようにして幻想されている状態「個人」を、ひかると呼んでくださいとお願いしたのです。

以上、一度は書かないとと思っていたが、めんどくさいので書いていなかった「ひかる」の名前の由来を説明しておきます。

なるべく、あびではなく、ひかるでよろしくお願いいたします。あびは、「量りしれない光」と結婚する前の旧姓のようなものであり、間違って呼んでも、ああ、まだ光に溶ける前の名で呼ばれたと思うだけで、怒りはしません。(-_-;)

もしも心動かされた作品があればサポートをよろしくお願いいたします。いただいたサポートは紙の本の出版、その他の表現活動に有効に活かしていきたいと考えています。