光る風 (8)

 めったにFACEBOOKを開かない光一がその日、メッセンジャーを確認したのは最近知り合ったギタリストに出したオファーへの返事を読むためだった。
 しかし、それとは別にいくつかのメッセージが溜まっていた。

 そのうちのひとつがキムソラからの連絡だった。記憶の一角にはあったが、もはやそれだけの縁と思い始めていた名前であった。
「光一さん。音楽フェスでの出会い以来、お久しぶりです。あのときはミエちゃんのこともあって、本当に運命的なえにしを感じました。一陣の風が、ほんの近くにいながらもすれ違っていたかもしれない二人を結んだ。世界は不可思議なところだとつくづく思います。
ところで今日、連絡したのは他でもありません。私が年に一回程度、皆に集まってもらっている宴会に、光一さんもご一緒できないかと思いついたのです。話せば長くなりますが、その宴会には大阪で障碍者運動を牽引してきた先駆者たちがたくさん集まります。私は光一さんが車椅子生活の中で日々感じることを綴っている『電動車椅子でGO!』というタウン誌への連載に気づき愛読しています。そんな光一さんにぜひ会わせたい、大阪の障碍者運動の先駆者たちが大勢いるのです。
会場は上本町の食の雑居ビルの中です。身体障碍の方も複数参加されるので、バリアフリーでしかも入り口近くの席を予約しています。光一さんもぜひご参加いただけませんか」

 光一はあの日のキムソラの顔を思い浮かべた。親友ミエのことで唯一応援していた日本人の「コーイチ」というのは今、目の前にいるこの人だと知ったときの泣き顔が蘇ってきた。
 その彼女が光一に引き合わせたいという何人もの人がいるという。
「お誘いありがとうございます。ぜひ、参加したいと思います。詳細をお知らせください」
 少しそっけない気もしたが光一はそうとだけ返事した。しかし、また新しい世界の扉が開けそうな予感に内心は少なからず沸きたっていた。

 続いて光一はギタリストからのメールを開いた。
 今は閉業してしまった大阪は釜ヶ崎のライヴハウス「胡蝶の夢」を車椅子で訪れた光一は贔屓のミュージシャン、マントラーズのライヴでギターを弾いていた雅治に初めて出会った。
 数多くの曲をギターで作ってはいたものの、リードギターが苦手で、弾き語りに厚みを持たせられないのが悩みだった光一は、彼の技量に感服した。ぜひ自分の曲のバッキングをしてもらいたいものだと願った。
 演奏の後、演者も観客も隔てなく酒を酌み交わすうち、光一は雅治の立ち位置に運命的な出会いを感じた。
 雅治はもともと自分のバンドを持ったり、ソロで活躍しているミュージシャンではなかった。とにかくギターを触るのが好きな彼はいずれかのバンドやミュージシャンのバッキングをすることが多かった。
 どんなキー、コード進行でも、わずかな打ち合わせの後、彼は見事なバッキングをこなし、求めに応じてギターソロのパートを受け持ち、曲に花を添えるのだった。
 一口にミュージシャンといっても実に様々なタイプが存在する。雅治には作詞作曲を手がけたオリジナル曲は少なく、様々な歌い手とユニットを組んで、ギターという自らが愛する楽器を駆使した。そうすることが大きな喜びに繋がる助っ人タイプだったのである。
 一方、光一は、一〇代の頃からアコースティックギター一本で様々な曲を作ってきた。プロのミュージシャンの曲をコピーして練習することは少なかった。単純なコードを三つ覚えるともうそれを使って自分の歌を作り始めた。
 そのほとんどはジャンルでいえばフォークソングの類に近かったと思う。アコースティックギター一本で自己流の音楽を作り続けるとどうしてもそうなりがちである。だが、自分の作った曲と、自分が聴くのが好きな音楽との間には大きな懸隔を感じて欲求不満に陥っていた。
 内側から突き上げる表現欲求を原動力に、ギターの練習も碌にしないでとにかく自分の曲を作り続ける光一。オリジナル曲は作らないがどんな楽曲にでも愛するギターという楽器の音色で無限の彩りを描き続ける雅治。その二人はいわば正反対のタイプのミュージシャンだったとは言えまいか。
 光一がミュージシャン? それは烏滸がましい言い方だ。彼はどのジャンルにおいても自分勝手な表現者に過ぎない。表現者という言葉すら、取り澄ましていて恥ずかしい。
 だが、いずれにしろ、光一はギタリスト雅治を必要としていた。

 月に何本ものライヴでギターを弾いていた雅治が、光一のような素人に関わる時間ができたのには、COVID19流行の影響があった。
コロナ下で何度も出された緊急事態宣言、その解除の後も次に緊急事態宣言が発せられるまで結局は隙間を埋めるように続く蔓延防止措置。
 そんな中で特に「槍玉」に上がった規制対象が、飲食店であり、中でも飲酒を伴う居酒屋、飲酒する中で歌を歌い唾を飛ばし密になって踊ったり歓談したりするという「言いがかり」を付けられたライヴハウスだった。
 コロナ感染対策としてライヴハウスに休業を要請する。そのことにどれほどの科学的根拠があるのかについては、光一も雅治も疑問があった。特にもっと密になる毎日の通勤電車などと比較する時、そっちを規制せずしてなぜ「夜の街」だけをスケープゴートにするのか。そのことには、多くの人々が疑問を抱いていたと言ってよいだろう。
 仕事を失ったミュージシャンたちは、これまで以上にアルバイトに精を出すしかなかった。
 酒や手料理を手早く用意する厨房や、広いジャンルの楽器に適応できるPAやスピーカーなどを備えたライヴハウスがいくつも、休業、さらに廃業に追い込まれていった。
 ライブハウス・・・・ひとつひとつの規模は小さくても、広い裾野を持っていた、音楽という芸術分野の文化的インフラ。それが根こそぎドミノ倒しされていったのだ。
 コロナの影響でその彼へのバッキングの依頼が、突然殆どなくなった。
 皮肉なことにその逆境によって生まれたギタリスト雅治の手持無沙汰が光一には好機となった。ライブハウスで知り合ったプロのミュージシャンである雅治に光一はダメ元で自分の曲のバッキングとレコーディングのオファーを出してみたのだ。

 キムソラとのやり取りを処理した光一が次に開いた雅治からのメッセージには、ありがたいことにこうあった。
「とにかく、光一さんの曲を聴かせてください。一緒にできることを探りましょう」
 臨死体験以後の生活のすべてがそうだと言えたが、あらゆることが加速度を増していた。
 生きている時間は短く、その間にしかできないことがあり、今ここは一度きりだ。
 その切実な感覚が破裂しそうに膨らんでいた。


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