「倶舎論」をめぐって

第2回 ローゼンベルグとは?
明治の末から、『倶舎論』を勉強するために、日本留学を決行したロシア人のことをお話ししましょう。
 ローゼンベルグ来日の様子は、臨場感(りんじょうかん)をもって伝えられています。ある雑誌に、こう述べられています。
 〔ローゼンベルグ〕氏は、明治四十五年五月二五日近(ちか)角(づみ)常(じ     
 ょう)観(かん)師に伴はれて始めて大学に来たのであつた。その時すでに、   
 よく日本語を話したが、姉崎(あねざき)先生には流暢(りゅうちょう)なドイ
 ツ語で話していた。(『宗教研究』第三年 第二十号、1920(大正9
 年)p.110,現代文に直した。ルビは私)

これを書いたのは、池田(いけだ)澄(ちょう)達(たつ)という人物です。日本のチベット学の草分け的(くさわけてき)な人です。連れてきた近角常観(1870-1941)と言う人は、今はあまり知られていませんが、当時は、カリスマ的な僧で、宮沢(みやざわ)賢治(けんじ)等にも影響を与えた有名人でした。近角は、ドイツ留学もしていたので、引率(いんそつ)には適(てき)役(やく)だったのかもしれません。昨今(さっこん)は、近角常観研究は、格段(かくだん)の注目を集め、その様子はネットでよくわかりますので、興味のある方は検索してみて下さい。また、姉崎と言うのは、姉崎(あねざき)正治(まさはる)(1873-1949)のことで、宗教学を日本に根付(ねづ)かせた学者です。彼が、ローゼンベルグの指導(しどう)教官(きょうかん)でした。とにかく、上の雑誌文から日時まで知ることが出来るわけです。この日から、約4年間、ローゼンベルグは、『倶舎論』を勉強することになります。でも、ローゼンベルグは、唯々諾々(いいだくだく)と、日本で学んでいたのではありません。彼は、日本の研究法に不満を持ち、それを文章化して、各『倶舎論』学者に送りつけました。姉崎正治の文章に、その様子が載っています。この文は、ローゼンベルグ自身が書いたものを転用したもののようです。語学の才も伺える見事な文語文です。


 大正二・三年度研究報告東京帝国大学院学生 オ・ローゼンベルグ前年度
 における小生の研究はその中心を『バスバンド』〔=世親〕の哲学に有(ゆ
 う)せり。すなわち倶舎・唯識両論の解説とロシア文への翻訳(ほんやく)と
 にしていまだ結(けつ)了(りょう)に至らず。前期研究の際、小生(しょうせ
 い)は梵漢(ぼんかん)の諸著と最近の日本出版の著作を比較したるに一致せ
 ざる箇所(かしょ)の少なからざることを発見せり。小生はこれを疑問とし 
 てその重なるものを一括(いっかつ)して各専門家の座右(ざゆう)に呈(てい)1  
 して解釈を乞(こ)わんと欲し本年春、別冊を作りたるをもって、ここに添  
 附(てんぷ)して提出せり。該(がい)冊子(さっし)の原文はドイツ文なるをも1  
 って荻原(おぎわら)講師に請ひて翻訳したるものなり。前述の次第により
 なお本学年も在院許可を願い上げそうろう。

 大正三年九月二一日
(『宗教研究』第三年 第二十号、1920(大正9年)p.111、雰囲気を壊さないようにして、1部のみ現代文に改めました、ルビ・〔 〕内は私)
この文中の荻原講師というのは、荻原(おぎわら)雲来(うんらい)(1969,1937)という人で、知る人ぞ知る大学者です。梵和大辞典等の編纂(へんさん)にも携(たずさ)わった人です。荻原がローゼンベルグの直接の指導教官でした。荻原は、『倶舎論』にも大変造詣(ぞうけい)が深く、和漢梵蔵(わかんぼんぞう)(=日本語・漢文・サンスクリット語・チベット語)にも通じていました。ローゼンベルグは、最良の師を得たことになります。小林(こばやし)潔(きよし)という人の論文には、「彼と彼の夫人エルフリダは、東京大学の近く、雑司が谷に住んだ」という一文もあります(小林潔「ロシアの日本学者ローゼンベルグ日本見聞録」Kiyosi,Kobayasi:Der russische Japanologe Otto,Rosenberg injapanische Sicht,Japanese Slavic and East European Studies,vol.24,2003,p.88)。ローゼンベルグの暮らしぶりを伝える雑誌文を、少し引用してみましょう。これも友人だった池田(いけだ)澄(ちょう)達(たつ)のものです。氏は学生として来たため日本の家庭によく出入した。また自分の家にいたときは疊(たた)の上に、臥(ふ)し、米の飯を食い、味噌汁を吸い、漬物(つけもの)を食いすべて日本風の生活をしていた。(『宗教研究』第三年 第二十号、1920(大正9年)p.111、現代文に改めました、ルビ私)
こんな具合で、ローゼンベルグは、日露(にちろ)戦争(せんそう)の記憶も、まだ消えないような日本に溶け込んでいました。さて、ローゼンベルグが日本留学に至るまでの経緯を、簡単に見ておきましょう。留学を決意させたのは、サンクト・ぺテルスブルグ大学の恩師、ロシア仏教界の重鎮(じゅうちん)、シチェルバツキー(Th.Scherbatstsky1866-1940)という学者でした。西欧(せいおう)を代表するようなワールドワイドな学者です。バーロー(J. S.Barlow)という人の論文には、このようにあります。彼の在学中から、私はローゼンベルグの関心を世親の偉大な著書『倶舎論』に導いていました。それで彼はその研究を始めました。というのも、ペテルスブルグアジア博物館(はくぶつかん)では、チベット語、中国語、サンスクリット語資料が豊富に活用出来ましたから。1911年、カルカッタにいた折、日本僧、山上曹源(やまかみ・そうげん、1878-1957)と知り合いになりました。彼は当時大学のヘッドでした。私は、彼から日本の『倶舎論』研究に関する興味深いあれこれを学びました。『倶舎論』は、かの地ではまだ生きているのです。私は、ローゼンベルグにこのことを書き送りました。それで、彼は、現場で、伝統的解釈に触れたいということで、日本行きを決意したのです。学部は同意して、旅行に必要な資金を提供しました。(バーロー「輝かしく若いロシア仏教学者ローゼンベルグ」、John S.Barlow,Otto O.Rosenberg(1888-1919):Brilliant Young RussianBuddhologist,Karenina Kollmar-Paulenz and John S.Barlow ed.,Otto OttonovichRosenberg and his Contribution to Buddhology in Russia,1998,Wien,p.51、原文には「Yamakami Jhosen」とありますが誤解なので、訂正しました、ルビ私)

この論文を書いたバーロー氏は、精神科医で、ローゼンベルグとは全く畑違いの人です。彼が、何故ローゼンベルグに興味を持ち、論文まで執筆するに至ったのかは、それはそれで、映画のように面白いストリーがあるのですが、今は触れません。これで、ローゼンベルグ来日の経緯(けいい)とその当初の様子が、少しわかったと存じます。次回は、ローゼンベルグの研究の中味を少し覗(のぞ)いてみましょう。


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