倶舎論をめぐって
第1回 日本の『倶舎論』研究
イントロダクションでも、触れたように、『倶舎論』の影響は、昔の日本にも及んでいます。平安時代の才女、清少納言の『枕草子』にさえ、登場します。そこには、寒い時期に、『倶舎論』の勉強に余念がない僧達の様子が、描かれています。まず、その場面の紹介から始めましょう。
正月に寺にこもりたるは、いみじうさむく、雪がちに氷りたるこそをかしけれ。雨うち降りぬるけしきなるは、いとわろし。清水などにまうでて、局(つぼね)する程、くれ階(きざはし)のもとに、車ひきよせ立てたるに、帯ばかりうちしたるわかき法師(ほっし)ばらの、足駄(あしだ)といふものをはきて、いささかもつつみもなく、下りのぼるとて、なにともなき経の端(はし)うち誦(よ)み、倶舎の頌(じゅ)など誦(じゅ)しつつありくこそ、所につけてはをかしけれ。(120段、ルビ・下線私の補足)
ここに、はっきりと「倶舎」と出てきます。頌(じゅ)というのは、韻文(いんぶん)のことです。『倶舎論』は、韻文で教理哲学を簡潔に示し、その後、散文の注で、その内容を詳しく解説します。若い僧達は、暗記しやすい韻文を諳(そら)んじていたのです。このように、『倶舎論』の学習は、僧の基本でした。仏教の基本用語をマスターするのに最適だったからです。当時は、試験に合格しないと、正式な僧になれませんでしたので、若い僧は、『倶舎論』を使って、受験勉強していたのです。『六法(ろっぽう)全書(ぜんしょ)』を暗記して、司法試験を受けるようなものです。
では、こういった勉強法が成立したのは、なぜでしょう。そこには、ある有名な中国僧が関与しています。その僧とは、玄奘(げんじょう)(602-664)という唐時代の人物です。
『西遊記』の「三蔵法師(さんぞうほうし)」のモデルと言えば、わかりやすいですね。ちなみに、この三蔵法師というのは、固有名詞ではありません。三蔵法師と呼ばれる人は、たくさんいました。三蔵とは、経蔵・律蔵・論蔵の3つを指します。仏教学習の基本事項を3つにまとめたものです。それらに通じている僧は、皆、三蔵法師と讃えられるのです。
さて、実在の玄奘も、唐からインドに渡り、帰国後、最新の仏教を伝えました。彼の教えは、後に「法相宗(ほっそうしゅう)」と呼ばれ、日本にも伝播しました。法相宗の基本は、唯識です。「心が、すべてを作り出す」つまり心(しん)一元論(いちげんろん)を説きます。これを詳細に論じるのが、『成(じょう)唯識論(ゆいしきろん)』という書物で、法相宗の最高聖典です。ところが、これが難解を極めます。仏教用語が百花繚乱で、ノイローゼになりそうな内容なのです。そこで、出てくるのが、『倶舎論』です。『倶舎論』は、先に述べたように、基本用語を覚えるのにうってつけです。
そういうわけで、先ず『倶舎論』から始めて、最終的に『成唯識論』に至るという学習コースが確立していきました。そうは言っても、『倶舎論』がすぐにマスター出来るわけではありません。非常に難解です。例を挙げてみましょう。昔、仏教学者と西洋哲学の学者が、共同作業して、仏教を論じるという企画がありました。『倶舎論』を担当した、西洋哲学者、上山春平氏は、その難解さを嘆き、こう言っています。
ともかく、これはたいへんなものである。西洋でいえば、おそらく聖トマス(トマス・アクイナス。イタリアの神学者、一二三五―七四)の『スンマ・テオロギカ(神学大全)』に匹敵するものであろう。叙述は明晰であり、いちいちの用語には簡潔な定義を下しながら、整然と体系的に構築されているのであるが、その体系がすこぶる壮大であり、その構成部分が複雑をきわめているのである。(桜部建・上山春平『仏教の思想2 存在の分析〈アビダルマ〉』昭和44年、p.238、ルビ私)
何となく、難しい雰囲気が感じられますね。昔の日本僧達も、頭を抱えて、『倶舎論』に取り組んだようです。その伝統が生きて、日本の『倶舎論』研究のレベルは、世界を圧していました。特に、江戸・明治・大正・昭和にかけて、漢訳を使った『倶舎論』研究は、紛れもなく世界一でした。その伝統を慕って、わざわざ、日本留学をした外国人がいました。明治末から大正初期の4年間ほど、滞在しました。
その名を、ローゼンベルグ(O.O.Rosenberg,1888-1919)と言います。サンクト・ペテルスブルグ大学からやってきた、ドイツ系ロシア人です。彼は、30そこそこで、夭折(ようせつ)します。先ずは、この不運なローゼンベルグの足跡を辿り、『倶舎論』自体に目を向けてもらう糸口としましょう。
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