新インド仏教史ー自己流ー

その2 
『般若経』群の中で、もう1つ人気のある経典を挙げておきましょう。『金剛(こんごう)般若経(はんにゃきょう)』です。これについてのコメントを引いておきましょう。
 『金剛般若経』は空ということばを用いず「AはAではない。ゆえにAである」という表現形式を反復することによって、観念を否定する。空の実践を端的(たんてき)に表現した「まさに住するところなくして、その心を生ずべし」という一節を含む本経は禅宗に大きな影響を与えた。(岡田行弘『大乗経典の世界』『新アジア仏教史03インドIII 仏典からみた仏教世界』所収、p.199、ルビ私)
『金剛般若経』をめぐる情報が満載されています。「AはAではない。ゆえにAである」という謎めいた表現は、よく「即(そく)非(ひ)の論理」と呼ばれます。鈴木(すずき)大拙(だいせつ)(1870-1966)が名付けたようです。大拙は欧米に禅を広めた著名な人物です。禅の普及のために『金剛般若経』を取
り上げ、その奥義(おうぎ)を「即非の論理」で示したのでしょう。「AはAではない。ゆえにAである」と聞けば、常識的な理解を超えた禅の世界を思い浮かべると思います。大拙の意図も、おそらく、超常識的な禅をアピールすることにあったと思われます。立川武蔵氏は、大拙の解釈を否定して、こう解釈します。
 Aは非存在である。ゆえに言葉によってAと表現される。ゆえにAである。(立川武蔵「『金剛般若経』に見られる「即非の論理」批判」『印度学仏教学研究』41-2、平成5年、p.984)
つまりAに代表される一切のものは、本来、非存在・空なので、それを把握しようとすれば、言葉によって表現するしかなく、言葉に基づいてAであるに過ぎないということだと思います。先の概説書で「観念を否定する」とありましたが、観念とは言葉に他なりません。われわれ人間は、非存在のものを言葉・観念で捉えていますが、それは世界の真実を理解していることにならないということなのでしょう。参考のために、前によく引用した著書の解
説も示しておきましょう。こう説明しています。
 不思議なことに『般若経』でありながら、「空」という文字がこの経にはいちども出てこない。しかし空の文字はなくても、空思想はその行間(ぎょうかん)に横溢(おういつ)している。すこぶるひんぱんに用いられているパラドクシカルな表現がそのことを示している。・・・アリストテレス的な論理では理解しえない表現が数多くあふれている。この『金剛般若経』でも「功徳(くどく)を積むとは、徳を積まないことである。だから徳を積むと如来は説く」・・・というようにである。このようなパラドクシカルに否定的な表現を用いることは、般若経的なスタイルなのである。・・・ふつうの論理でないことは、だれにでも理解されていたからであろう。しかしそこに空の思想がむき出しにされている。(長尾雅人『世界の名著2 大乗仏典』昭和42年、p.38、ルビほぼ私)
ここでは、即非の論理が肯定的に述べられています。立川氏の見方とは逆です。解決するためには、空の中身を検証することが必要ですが、それは随分難しいことです。

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