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ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜51 『木曜日の変人』

 泣きながら彼は言った。

「どうして嘘ばかりつくんだよ」

「え?」とわたしは答えた。

 それがわたしたちの交わした初めての会話だった。

 携帯電話もインターネットもない、ゆるやかに、けれど大きく時が流れていた頃の話だ。

 わたしはまだ十代だった。

 大学に進学し、東京で一人暮らしを始めたばかりで、世の中についてなんにも知らない子供だった。

 そもそものきっかけは間違い電話だった。

どしゃ降り雨のある木曜日、夜十一時のことだ。彼は雨に負けないくらい激しく泣いていた。そして雨に負けないくらい冷たくわたしを叱責した。

「あの、番号を間違えていませんか?」とわたしは彼に言った。

「……くそ」と言って彼は強く受話器をおろして電話を切った。どうやら彼は、本当に話したかった相手が、また一つ嘘を積み重ねたと勘違いしたようだった。

 五分後、再び電話が鳴った。

「すまない。間違えて電話をしたようだ」

 何度も掛けているであろう番号を押し間違えるなんて、彼はよっぽど動揺していたんだろう。

「なあ、お願いだ。君でいい、いや、君がいい。俺の話を聞いてほしいんだ。少しだけ時間をくれないか?」

「あ、いや、すみません。いまちょっと手が離せないものですから」とわたしは断った。

「手が離せない? じゃあなんで電話に出たんだ?」

「いや、その……」

「女ってのは、やっぱりどいつもこいつも嘘つきなんだな」

 彼の剣幕にわたしは気圧された。

「俺の話を聞きながらその可愛らしい声で、可愛らしい相槌を打って、あなたはなにも間違ってない、そう一言言ってくれるだけでいいんだ。それともなにか、男を喜ばせるのはタダじゃやらないってわけか? この商売女が!」

 わたしは恐ろしくなり電話を切った。すぐにまた電話がかかってきた。執拗に何度も掛けてきたので、わたしは電話線を抜いた。

 それから数日間、夜に電話が鳴ることがあるとわたしはビクビクと受話器を上げた。けれど、なにごともなく過ぎていき、ようやく落ち着きを取り戻した一週間後の同じ時間、再び電話が鳴った。もう彼から電話が来ないだろうとわたしはすっかり安心してしまっていた。

「よお」と彼は言った。

「俺だよ。これは間違い電話じゃないぜ、君に掛けているんだ。今どこから掛けてると思う?」

 わたしは胃の中がずしりと重くなったような気がしてなにも言えなかった。

「窓の外を見てごらんよ」

 わたしは窓の方へ顔を向けた。カーテンが「開けてはならぬ」と警告するかのように揺れていた。いや、震えているのはわたしの方だった。ゆっくりと窓辺に行き、ほんの少しだけカーテンをずらして窓の外を見た。窓の下の通りにある電話ボックスの中に一人の男がいた。顔の部分は影になっていたが、視線がこちらに向けられていることがはっきりと分かった。

「警察呼ぶわよ」わたしは再び受話器を手に取って男に言った。

「そうカリカリするなよ。そういう時は甘い物がいいよ。ドーナツを買ってきたんだ。君の好みが分からないから六種類のドーナツを計十二個買ってきた」

「どうしてここが分かったの?」

「動物の顔をしたドーナツなんだ。君はどれが好きかな? ゾウさんかな? ライオンさんかな?」

「あなた、いったい誰なの? なにが目的なの?」

「だーかーらー、俺の目的は君に話を聞いてもらうことなんだってば。キリンさんもあるし、パンダさんもあるよ。君んちコーヒーはある?」

「あと少しでもわたしに近づいたら警察呼ぶからね」

「好きにしなよ。あ、そういえばさっき、どうしてここが分かったの、って聞いてたね。教えてあげようか? 俺にここを教えてくれたのは……」

 わたしの心臓は恐怖で張り裂けそうになった。

「いま君が呼ぼうとしている人たちだよ」そう言って彼は、音に反応してシンバルを叩く猿のおもちゃみたいに笑った。わたしは電話を切り、再び窓辺に行き、ゆっくりカーテンの隙間から外を見た。電話ボックスには誰もいなかった。走って玄関へ行き、戸締りを確認して、当時付き合っていた隣町に住むカズヤに電話をかけて今すぐ来てもらうようにお願いした。三十分後に彼はスクーターでやってきて、そのまま二人乗りしてわたしは彼の家へしばらく身を寄せることにした。そしてまた一週間は平穏無事に過ぎていった。だけどわたしは、木曜日が近づくと落ち着かない気持ちになっていった。木曜日の夜、カズヤはアルバイトの予定が入っていた。わたしは今日の夜だけは一緒にいてほしいと頼んだが、彼は笑って言った。

「大丈夫だよ。この場所まで分かりっこない。電話が掛かってきても出なくていい。もし俺が電話する場合は、そうだな、三回コールして一度切るから」

 そして彼は夕方に出掛けて行った。

 十一時。電話が鳴った。大丈夫。ここが分かるわけがない。ベルは三回鳴って切れた。安堵で全身の力が抜けた。そしてまた鳴り出した電話の受話器をわたしは安らかな気持ちで上げた。

「もう、驚かせないでよね」

 電話の向こうからはさーっというノイズが聞こえた。

「……カズヤ?」

「はーはーはー、まーったく、男の家にしけ込むなんて悪い子だなあ。若くて健康な男女が一つ屋根の下でどんなことして過ごすんだい? 最近望まない妊娠をする若い子が増えてるってテレビで言ってたぜ、心配しちゃうな、俺。それにしても君が本当に必要な時に、そばにいてくれないなんて、あいつもつれない奴じゃないか、え?」

「……あなた、なにが目的なの?」

「俺の話を聞いてくれっつってんじゃねーか! 何遍も言わせんじゃねー!」

 わたしはゆっくり深呼吸して息を整え、腹を据えてから言った。

「分かった。聞いてあげる。好きなだけ聞いてあげる」

「へへ、そうこなくっちゃ」

 そして男は話し始めた。恋人である女との馴れ初めから、これまでにその女がいかに男を傷つけたかを語った。それはあまりにもありきたりな男女の物語で、聞いていて詰まらなかった。こんな詰まらない話しか出来ないようじゃ、そりゃあ女に浮気されるわな、とわたしは思った。

「なんだかんだ言ってお似合いだと思うな」、どう思うか聞かれてわたしはそう答えた。

「ほ、本当かな?」

「ええ。女ってね、時々恋人の愛情を試すためにそういう無茶なことしてしまうことがあるの。だから迷わず思い切り彼女を愛してあげて。あなたはなにも間違ってない」とかなんとか、わたしはそれらしいことを言った。

「分かった。ありがとよ、話を聞いてくれて。おかげで気持ちが楽になったよ。よく眠れそうだ」

 一時間以上続いた会話はこのようにして終わった。

 そしてもう、二度とあの男から電話が掛かってくることはなかった。

 こうしてわたしの木曜日の変人は、あっけなく去っていった。


 長い時が過ぎた今でも、わたしは知らない人と電話で話すのが苦手だ。登録していない番号から着信があるだけであの時の恐怖が蘇ることもある。どこかから、下品な笑い声が聞こえ、誰かがこちらを見つめているような気がするのだ。

 あの出来事はいったなんだったのか。彼はいったい誰だったのか。本当に話を聞いてもらうことだけが目的だったと?

 あの男の声は、いつまでもわたしを捕えている。



・曲 布袋寅泰 Deja-vu


SKYWAVE FMで毎週木曜日23時より放送中の番組「Dream Night」内で不定期連載中の「木曜日の恋人」というコーナーで、パーソナリティの東別府夢さんが朗読してくれたおはなしです。
上記は6月6日放送回の朗読原稿です。

今回は51作品目ということで、第1作目の『木曜日の恋人』のセルフパロディです。↓こちらと併せてお楽しみいただけたらと思います。

朗読動画も公開中です。よろしくお願い致します。


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