夙川経由で生まれた街へ

 上部が硝子張りになった大きな機械にタイミングを見計らってメダルを投入し、中に設置された前後運動を繰り返す押し板に投入したメダルが押し出され、その先にある大量のメダルをさらに払い口目指して押し出す。こんな風に書いてしまえばこれのなにが面白いのか、という所謂メダル落としに僕が小学生だった頃、僕と父は熱中してよく街の小さなデパートの四階のゲームコーナーに一緒に行っていた。

 その日は誰もメダル落としで遊んでいる者はなく、父が仔細に六つある投入口全ての場のメダル状況を確認し、一番還元率の高そうな口に目星を付け「今からメダルを借りてくるから、この投入口を確保しておくように」と僕に言い渡した。僕はその投入口の前で愛国心に溢れる歩哨のように突っ立っていた。

 ふと横を見ると三メートルほど離れた所にパンチングマシンがあった。液晶画面もなく、パンチ力が数値となり小窓にデジタル表示され、結果に応じて何段階かある評価コメントの書かれたパネルが光る。というものだった。

 僕は相変わらず突っ立って、その場から光っていない状態の評価コメントを読もうとした。一番上、最も強力なパンチを放った者にだけ与えられるコメントは読めた。「世界チャンピオン」と書かれていた。その下、他の部分も読めた。だけど一番下、最も低い評価のコメントだけがどうしても読めなかった。それが気になって仕方がなかった。強い者は世界チャンピオンとまで褒めそやされ、弱い者は一体どんな言葉で貶められるのだろう。僕は、父の言い付けも忘れ、数歩そのパンチングマシンに歩みよった。で、ようやく読めたそこにはこう書いてあった。

「逃げるが勝ち」

 ふうん、と納得して戻ろうとした所、僕が見張るべき投入口の所に見知らぬ兄ちゃんが立っていて、メダルを投入し遊んでいた。

 そこへメダルを抱え父が戻ってきた。戻ってくるなり「なにしてんのよ、ここ見とけって言ったべや」と蝦夷の訛りで僕を叱った。

 その日の記憶はそこで途絶えているのだが、その後どうなったのか、多分いつも通り熱中してメダルを落としていたと思う。父が見張っておけと言っていた投入口の兄ちゃんはじゃんじゃんメダルを落としていて、父の見識は凄いのだな、と思った記憶はある。

 と、一体僕はなにを書いているのか。僕は村上春樹著「猫を棄てる」を読んで、読書感想文を書くつもりでいた。村上春樹さんが自身の父親について語った本である。冒頭で村上さんが父親との思い出について、今でもいちばんありありと脳裏に蘇るのは「とても平凡な日常のありふれた光景だ」と言っていた。なるほどなあ、と思う。そうして、読んでいるとどうも自分でも忘れていた僕自身の父との上記のようなたわい無い思い出が想起されるのであった。村上春樹と彼の父親の話、として始まったものが気がつけばその固有性を離れ、父と息子、というシンプルで普遍的な話となり、それはつまり、読者と読者の父、ひいては、僕と僕の父の物語になっていたのだ。

 そんな訳で、僕の読書感想文は感想でもなんでもなく、このような思い出話になってしまった。パンチングマシンから得た教示に従い、そそくさとこの場から逃げることに致します。では。

 



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