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騙されているのではないか?("The Pretender" / Jackson Browne)

騙されているのではないか、と感じることがある。

社会の中で生きていて、ふとそう感じることがある。どこからどこまで、と具体的には分からない。もしかしたら物心ついた時から、自分はずっと騙され続けてきたのではないか。周りにある人や風景、あるいは自分自身さえ、ひどく虚ろなものに思えてくる。こんな虚構のためなんかじゃなく、たとえ多くも大きくもなかったとしても、確かな「真実」を掴むために生きてきたのではなかったか。

そういうことを考えるのは、心に直接ぶっ刺さる何かに出くわした時だ。鮮烈な色彩を前にして、それまで「色彩」と聞かされていたものが、いかに貧弱な彩りであったかを悟る。意義がある、価値があると聞かされ続けてきたものたちが、あっという間にはるか後方へと遠のいていく。目の前には、強烈な感動だけが残る。

狐につままれたような時代、と言えるかもしれない。それって「本当に」人生を豊かにしてくれるの?と思うような、デバイスとかサービスとか制度が、次から次へと暮らしに侵食してくる。虫に食われるように、人生の主導権とか主体性がじわじわ齧られているような感覚がある。

しかし。だからこそ、こんな時代だからこそ、その違和感を拭えない者たちは「主体的」でなくてはならない。恐れおののいたり、主導権を明け渡したりしてはならない。たとえ、周囲の誰もがその「感動」に賛同しなかったとしても、それを信じなくてはならない。そうして、未来を切り拓いていかなくてはならない。

と、抗ってはみるものの。

まったく世捨て人になるとか、出家して僧になっちゃうみたいな度胸や価値観は持ち合わせていない。この下世話きわまりない社会の中に留まったまま、せめて「勇敢に」生きようとするが、その勇敢さが賞賛されることや、あるいは社会を揺るがしたりすることは、おそらく起こり得ないということを知っている。

勇敢だろうが何だろうが、生きるためには金がいる。しっくりこない社会の、しっくりこない仕事をして、なんとか精いっぱいの金を稼ぐ。そして、どうにか自分を見失わないよう、どうにか満たされた気分でいられるよう、それを費やす。そういうことを毎月、毎年、たぶん最期まで繰り返す。

この前まで、信じていたことを思い出す。いつか、ある時、自分にも、驚くような幸福を成し遂げる日が訪れる。その到来こそが、このモヤモヤした気持ちを一挙に吹っ飛ばして「そんな時期もあったな」と、笑えるようにしてくれる。

人生はそんなふうに、舞台転換みたいには、変わりゆかないのだ。このしっくりこない社会の、この澱んだ空気が一斉に吹き飛ぶ記念日など、訪れはしない。ただ地道に、与えられる一日一日を、少しでも有意義に過ごすしかない。ただ地道に、勇気をもち、決意し、落ち込みながら、感謝して、進むほかない。それが「幸福」への、もしかすると唯一の、道なのである……。

悲しいだろうか。だけど、もしかしたら、その悲しさの根源には、必要以上の「驕り」が、自分への「憐れみ」があったのではないか?

"The Pretender" Jackson Browne

というようなことを、この曲を聴いて、その強烈さを受けて、感じたのだった。


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