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「嫌われる勇気」は最強のメンタルコーチである

「嫌われる勇気」は数年前からその存在を知ってはいたが、よくある自己啓発本かな、くらいの認識で、読んでいなかった。

ふと手元にあり読んでみたら想像以上に悩みを吹き飛ばしてくれて、善く生きるための学びが深かったのでまとめてみました。
私と同じ様に食わず嫌いしている方に本記事が届くと幸いです。

「嫌われる勇気」のメッセージ

・人は変われる
・世界はシンプルである
・誰もが幸福になれる

そもそもアドラー心理学とは?

そもそもアドラーはどなたかと言うとユング•フロイトと並ぶ、三大心理学者の一人だ。

ただ思想においてアドラーが一線を画す。フロイトやユングが原因論を提唱するのに対して、アドラーは目的論を提唱する。原因論では「今起きている現象は過去の何らかの経験が原因で生じている」と考えるが、目的論では「今起きている現象は何らかの目的によって生じている」と考える。目的論の詳細な思想は後述するが、その思想は「人を動かす」「道は開ける」のカーネギーや「7つの習慣」のコヴィーに引き継がれている。

アドラー心理学が定義する人生目標は行動面と心理面に大別される。

・行動面:自立すること・社会と調和して暮らせること
・心理面:私は能力があるという意識があること・人々は私の仲間であると思えること

これらは人生のタスクに向き合うことで達成される。人生のタスクとは仕事のタスク・交友のタスク・愛のタスク(恋愛と家族)の三つに大別され、タスクという意味合いの通り、避けられないしなければならないことを指す。
以下でアドラー心理学の具体的な思想について冒頭に挙げた三つのメッセージに沿って紹介していく。

人は変われる

アドラー心理学では「人は客観的な世界ではなく自らが意味づけした主観的な世界に住んでいるため、その人の世界の捉え方次第でそもそもある事象が問題か否かも変わる」と考える。

目的論の特徴的な考えの一つに「トラウマの否定」がある。人は過去や原因ではなく自らが定めた目的に向かって動くと考える。
例えば、ひきこもりの人は不安で外に出られないのではなく、外に出たくないから不安という感情を作っている、
例えば、コーヒーをこぼされて大声で店員を怒った人は、大声で店員を屈服させるという目的のために怒りの感情を作りだした、と考える。

些か厳しい考え方に感じるが、アドラーは「感情とは出し入れ可能な道具である」と考えている。現に親子喧嘩中でも仕事先から電話がかかってきたら声色を変えることができる。いくら怒っても包丁で刺したりはしない。怒って物を投げたとしても高いお皿を投げるだろうか?「後片付け大変そう」とか頭によぎって柔らかいものを投げたり、そもそも投げずにドアをバタンと閉めたり口撃に切り替えたりしてないだろうか?「思わずかっとなって」というのは嘘である。感情と理性、身体を切り離して捉えた言い訳であり、結局どのような思考・行動を表出させるかは「全体としての自分」の判断の結果である。「相手を負かしたい。自分が怒っていることを顕示することで腫れ物に触れるように気を使ってもらいたい」という目的のために怒りという感情を出しているに過ぎないのではないだろうか。
怒りの例に傾斜してしまったが、他の感情についても同様である。例えば「人見知り」は単純に今、初対面の人とのコミュニケーションスキルが低いと私が思っているだけである。克服したいのならそのスキルを獲得すればいいだけであり、「私=人見知り」では決してない。

怒りっぽい・緊張しやすい・人見知りなどの性格は変えにくいように思えるが、アドラー心理学において性格は自分で決定したものであり(10歳前後に、無意識的かもしれないが)故にいつでも変えられると考える。
つまり自分を変えられないのは変えることが怖いからであり、勇気がないからだとする。

。。とは言いつつもやはりやや厳しい考え方に思える(笑)しかしアドラー心理学は「全て自責だ!甘えるな!」と言いたいのではない。「これまでの人生に何があっても今後の人生をどう生きるかには何の関係もない。自分で決められるよ!」と言いたいのだ。

アドラー心理学は「過去は関係ない。人は変われる。」という勇気の心理学である。

世界はシンプルである_「課題の分離」とは

アドラー心理学は「世界はシンプルで複雑にしているのはあなたである」と言う。身の周りの課題の大半はあなたがどうにかすべき課題ではない。だから課題を分離して自分が解くべき課題に集中せよ、と。

ここで重要な考え方に「課題の分離」がある。

「課題の分離」とは名の通り自身が解くべき課題と他者の課題を切り分けることである。ある問題に直面した際にそれは誰の課題なのか考え、他者の課題には踏み込まない。
例えば「子供が勉強しないこと」も親の課題ではない。勉強しなくて困るのは本人である。そこに親が介在する必要がない。また「これをしたら自分がどう思われるかな、、」と悩むことはあなたの課題ではない。同じことをしても賛否両論ある場合、それは他者の課題であり介入すべきでない。毛色を変えると芸能人の不倫やスキャンダルなど、全く持って一般人の課題ではない。

「頭では理解できるけど、でもなー、、」と思う気持ちは非常にわかる。「いやいや、子供が道を逸れないようにするのが親の役目でしょう」とか。それも一理ある。なのでここで提案したいのはせめて関心の輪にある事象に神経をすり減らすのではなく、まずは自分がある程度コントロールして解決することができる、影響の輪の中にある事象に対して集中し、徐々に影響の輪を広げていけばよいのでは?ということである。

嫌われる勇気02


人間、大きなストレートを感じるのは自分の力ではコントロールできない状況下に置かれている時である。そうした状況でどう振る舞えばよいか?事態を少しでも好転させるべく、自分が変わるだけで変化する課題を探すのだ。基本的に他者は変えられないので、課題を分離してまず自分が解ける課題に集中する。すると少しずつ進捗が生まれる。進んでいる感があると心が楽になる。

世界はシンプルである_「全ての悩みは対人関係

「課題の分離」と並んで重要なアドラー心理学における考え方の一つに「人間の全ての悩みは対人関係にある」という点が挙げられる。

ちょっと極論すぎないか?(笑)と思うかもしれない。ここで少し脱線して「劣等感」について考えてみる。

「劣等感」と聞くと「俺はイケメンじゃないから彼女できない」とか「Fラン大学だから就活うまくいかない」といった「私はAだからBできない」という思考から生じるものをイメージするのではないだろうか。「劣等感」には確かにこの考え方も一部あるが、上記は劣等コンプレックスであって、劣等感ではない。「私はAだからBできない」という思考は、暗に「Aさえなければ私は有能であり価値がある」という願望が垣間見える。これがこじれると自分自身ではなく、自分を飾る装飾にいかに権威あるかのアピールに興じる優越コンプレックスに転じる。経歴詐称やブランド信仰、自慢(転じて不幸自慢も。けが/病気/生い立ち/失恋etc)を多くすることで「特別な自分」であろうとする。
一方で健全な劣等感とは他者比較ではなく理想の自分像との比較から生まれるものである。

嫌われる勇気01

勿論、劣等感の芽生えは他者との比較から生まれることも多いかもしれない。悔しさ、嫉妬、そうした感情は努力や成長を加速させる原動力にもなる。しかしその感情のみで生きることは自分の人間としてのあり方・価値観に従った自律的な生き方ではない。他者との比較・競争の世界のみで生きていると他者に振り回される。努力と成長による劣等感の補償に向き合い続けられるほど人間は強くない。自身のありたい姿・価値観がないと劣等コンプレックスや優越コンプレックスにどうしても転換してしまうものだ。

地元の友達との繋がりだけでは知りえなかった煌びやかな世界をTVで観て、浴びる程にSNSで情報を入れられるようになってしまったことで、比較してしまう他者の範囲が爆発的に広がっている。現代人の悩みの根本には他者との比較・競争意識から来る満たされない承認欲求があるように思える。

アドラー心理学では承認欲求を明確に否定する。人間は他者の期待を満たすために生きているのではない。承認欲求への執着から解放されるためには不要な判断に対して自覚的である必要がある。例えば、対人関係の中で仮に「私が正しい」と確信した瞬間、既に権力争いに足を踏み入れていると気が付けるだろうか。議論の焦点が「主張の正しさ」から「対人関係の在り方」にシフトしているためである。「私が正しい→あの人は間違っている→だから私は勝たねばならない」という思考である。他者からの承認を求めた権力争いには一切乗るべきではない。他人からどう思われるか、他人があなたをどう思うかは、その人の課題であってあなたの課題ではない。逆も然りでSNSで他人に議論など吹っ掛ける必要はない。他人が発信している意見はあなたには何の関係がないことが多い。

自身が不要な判断をしていることを自覚し、反応しないようにすることが重要である(その名の通り「反応しない練習」は参考になる。kindle unlimitedなら¥0!!!)。

「自由とは他者から嫌われることである」
自分のあり方・価値観を定義し、課題を分離して自分が向き合うべきタスクを粛々と進捗させればよい。

誰もが幸福になれる

先述の通り、アドラー心理学では「全ての悩みは対人関係にある」と考え、悩みの解消のために「課題の分離」が必要だとした。しかしこれでは「私は私、他人は他人」とドライな個人主義に見えるかもしれない。課題の分離はあくまでも悩み解消のスタートラインであり、そのゴールには「共同体感覚」がある。ここを理解してアドラー心理学を理解したと言えるらしい(*私もまだまだ理解できていないので解釈が間違えていたら教えてください)。

「共同体感覚」とは他者を仲間だとみなし、そこに自分の居場所があると感じられることを言う。共同体感覚を持つには自己への執着を他者への関心に切り替える必要があり、そのためには以下の3つの要素が必要である。

自己受容    他者信頼    他者貢献

自己受容。自己・他者共に行為レベルではなく存在レベルで受容する。何かを提供できるからではなく居てくれることがそれだけで価値であると考えられるようマインドシフトが必要である。また自己受容≠自己肯定である。自身の結果が60点の時に「本調子なら100点とれた」などと考えずに60点であることを認め、次100点にするにはどうしたらよいか素直に考えられることが自己受容である。

他者信頼。これは信用とイコールではない。信じて用いるのではなく、信じて頼ること。そこにあるのは人間としての全面的な信頼であり、裏切られるかどうかは気にしない。裏切られるかどうかはあなたの課題ではないので分離して考える必要がある。

他者貢献。共同体へのコミットが必要であり、「この人たちのために自分は何を与えることができるだろうか」と考え続けることが重要である。また先にある未来で成し遂げたいことに向き合いつつも、今をそのための修行、苦行などと考えない。線ではなく点で幸せを感じ、今、この瞬間を大切にするように心がける。

自己受容、他者信頼、他者貢献。

この3つを追求する上で「上下の繋がり」で人間関係を捉えることから脱却する必要がある。「上下の繋がり」で人間関係を捉えると課題の分離ができず、他者をコントロールしようとする自分が容易に表出してしまうからだ。「あいつはだめだ」「あの子はかわいくない」「あの部下は使えない」というマイナスな判断だけでなく、「よくできたね!」「偉いね」「すばらしい!」といったプラスの評価をすること、ほめることもアドラー心理学では否定する。なぜなら褒めるという行為(アメ)もムチもその目的は他者の操作であり、「上から下」のニュアンスが存在するからである。心から思ったのであれば褒めるのではなく感謝を伝えるべきである。そしてその「感謝の気持ち」の表明は「上下の繋がり」ではなく「横の繋がり」である。

感謝をすることは他者への勇気付けと言える。人は自分に価値があると思えた時に勇気を持てるからだ。

とはいえ、自分だけが他者貢献の精神でいたら搾取されるのでは?報われないのでは?と不安に思うかもしれない。いきなりは課題の分離ができず、他者からどう見えるか気になり、対人関係で困るかもしれない。そんな時に大事な道標は「対人関係で困ったら、より大きな共同体の声を聴け」ということである。世界は自分の見えている世界で閉じていない。もっと広い。たとえ中学校の自クラスでうまくいかなくても、色々な学校から人が来ている塾では全く違う世界があるかもしれない。今いる会社でうまく活躍できなくても、数多ある会社のどこかでは活躍できる環境があるはずである。今の自分の苦難は「コップの中の嵐」かもしれない。コップの外に出れば全く違う世界がある。

人の悩みは自分自身の中にあるのではなく、全て対人関係にあるし、人はいつからでも変われる。なので健全な劣等感を持って自分の課題を一つ一つ解くこと、それによって共同体に貢献することでより善く生きれるのではないかと思う。

嫌われる勇気03

最後に

人生やある挑戦のエンディングがどうであるか以上に、
「いま、このわたし」が真剣に丁寧に生きているかが、
結局自分の幸福と他者への貢献に繋がる。
だから目の前のことに誠実にひたむきに向き合い続けることが重要だ、ということを教えてくれる素敵な本でした。

最後に上記を体現した姿が漫画化されていたので共有して結びとさせていただきます。

おまけ:活字を読むのが苦手な方に

「嫌われる勇気」はYoutubeでも解説動画があるのでURLを貼っておきます。

①オリラジ中田さん
本の流れに沿って網羅的に解説されていてわかりやすいです。

②マコなり社長
彼が重要だと思う観点をピックアップして面白く短くまとめられています。



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